Tag Archives: 聖書

「罰」だと思うと少し気が楽になるのは事実

神罰 (叢書・ウニベルシタス)

日本人が旧約聖書などを初めて読むと、ヘブライ人の神はどうしてあんなに残忍で、酷薄で、嫉妬深く、不条理なのか、不自然な感じがして馴染めないのが普通だと思う。神様から、お前たちにあの土地をやるから、そこを攻めて原住民を皆殺しにしろ、と命令されたのに、侵略して占領はしたが、原住民を一部見逃して皆殺しにはしなかった、というようなことも神に背いた「罪」とされる。それが後々までも祟ることになる。イスラエルに都合の良いことが書いてあるというだけでなく、書き手が自ら好んで罪深い者になりたがっているような気配さえ感じられる。人間の目には良さそうに見えることでも、「神の目」には「罪」であり、人間は罪から逃れることがほとんどできないということを言いたいのだろうか。また、人間の目には不条理に見えることでも、神の目には正当であり、不条理な苦難と思われることでも当然の罰である、というのだろう。

自分が生まれてこの方さっぱりついておらず、良いことが何も無く、特別悪いことをしたつもりもないのに、自分に対しては悪いことばかり起こり増えていく、という時、これを不条理だと思うとまさに不条理でしかないが、これは神意である、自分には理解できない人間の理解を超えた神の論理があり、これがきっと自分にふさわしい「罰」であるに違いないと思うと、少し気が楽になるものだ。まぁ、オレは存在自体が天罰だと思っていれば間違いない。ダメな人間の実例として創造され、ダメな人間がどういうふうにもがき苦しむかを示すために生かされ、ダメなものからはダメなものしか生じず、ダメなものはますますダメになり、ダメな方向を自分で選んで進んでいくという法則を世界に示すために、今後も生かされて野垂れ死にすることになるのだろう。

西洋中世の罪と罰 亡霊の社会史 (講談社学術文庫)

”ラプチャー(携挙)のプロパガンダは、こうして仕掛けられた | カレイドスコープ”

このブログはユダヤ陰謀論臭いですが、それはいいとして、
確かに「携挙」という言葉を使う連中はカルトだと見て間違いないでしょう。
危ない福音派を見分けるメルクマールになるかもしれません。

ラプチャー(Rapture=空中携挙)とは、ひとことで言えば、「キリストが空中にやってきて、信仰の深いキリスト教徒を生きたまま召し上げて、世界のガラポン=艱難から“救助”する」という考え方です。

携挙には、「艱難前携挙」、「艱難携挙」、「艱難後携挙」と、さまざまな説があります。

また、キリストの再臨についても、二度再臨説などもあります。

特に、プロテスタントの多くの人たちが待ち焦がれているのが、「艱難前携挙」です。

艱難前携挙とは、

「世界に襲い来る患難の時代の前に、キリストが空中に来られて忠実なキリスト教徒を生きながらに空中に引き上げそのまま天国に連れて行く。

その後、地上には最終戦争が起こり、殺毅と荒廃が地を覆う、そして地上の人間が死に絶える寸前になってキリストが聖徒と共に地上に再臨し、世界の軍隊を滅ぽし平和をもたらすというもの」

というもので、クリスチャンの“選民思想”をうかがわせる一面も持っているのでしょうか。

via ラプチャー(携挙)のプロパガンダは、こうして仕掛けられた | カレイドスコープ.

しるしと不思議と携挙 Neglecting Signs and Wonders is Neglecting The Rapture

すべてのクリスチャンが、キリストの弟子として、霊的な目が開かれて、現実に御国を拡大していく信仰の勇士として、前進する力を与えてくれるのが、本書、『しるしと不思議と携挙』です。携挙という、主イエスにお会いする最高の時を待ち望む姿勢が、マタイ25章でたとえられている、油を用意していた賢い娘になることであり、聖霊の力によって、しるしと不思議の働きを行い、地上最後の神の偉大な働きに入っていくことであることを教えられます。 (ジャパン・リバイバル・ミニストリーズ代表 多摩福音センター牧師 綾部裕子師の訳者あとがきより抜粋)

若者が読みたくなる新しい日本語訳聖書 「ALIVE訳」、今月リリース : 神学・教育 : クリスチャントゥデイ

若者が読みたくなる新しい日本語訳聖書 「ALIVE訳」、今月リリース : 神学・教育 : クリスチャントゥデイ.

日本人が「神」の観念をもつのは無理だな。デカルトの「省察」を読んでいてそう思った。信徒を増やして献金を巻き上げるには、日本はまだ可能性のある畑だろう。

聖書 新共同訳―旧約聖書続編つき(革装)

正教の名古屋ハリストス聖堂の司祭がかつてEmail説教で、「神を信じるなんてできないというのはもっともです。でもイイススなら信じられるのでは?」と言っていたのが妙に説得力があった。日本人のレベルにはあっている。

いろんなキリスト教会の説教をネットで読むことができるが、名古屋ハリストス正教会の説教は、引用による飾り立てやハッタリが少なく、いつもひとひねりあって、哲学的(神学的?)な思考を自然に要求するようなものが多く、水準が高い。日本のキリスト教世界の最良部分じゃないかな。Email説教を配信しているのは、正教会でも名古屋ハリストス聖堂だけみたいだ。一応おすすめ。福音派などの邪教に引っかかるよりは良い。
http://www.orthodox-jp.com/nagoya/

エホバの証人訳の聖書(新世界訳)がアマゾンで売られている

これですけど、
聖書―新世界訳 (1985年)

信者は無償で配っているはずなので、売ってはいけないはず。
ということは、ただでもらった人がアマゾンに出品してるのだろうか。

福音派などがただでくれる聖書(新改訳)にも「この聖書は売れません」と書いてあることがあるけど、あれを出品するというビジネスもありなのか。この「新改訳」もその手かも。


2012年中型12刷発行です。若干のスレ、汚れはありますが、比較的きれいだと思います。折込、書込みは見あたりません。

「エホバの証人」といえば、危ないカルトというイメージしかないが、教理を素直に見ると、少なくとも伝統的キリスト教会の「三位一体」よりはわかりやすいし、マトモなように思える。

論争[編集]

  • 伝統的諸教会は一般的に、エホバの証人をキリスト教における異端、またその本書を改竄された聖書であると考えている。そのため、本書の訳文の是非を巡って多くの論争が提起されてきた。
  • 主要な論点となるのは「三位一体」についてのテーマである。伝統的諸教会は三位一体の論理に基づいて「キリストは神性を備えており神ご自身である」「聖霊もまた、人格を持つ存在で、神性を持つ神ご自身である」と考えるが、エホバの証人は「キリストは神性を備えてはいるが神ご自身ではなかった[21]」、「聖霊は人格的なものではなく、神の活動力である[22]」と論じる。
  • 聖書の箇所ごとについての論争
    • ヨハネ 1:1:「初めに言葉がおり,言葉は(God)と共におり,言葉は神(a god)であった。(新世界訳、括弧は英語版、下線は日本語版原文)」……エホバの証人は「言葉はとともにおり」の「(テオン)」には冠詞(トン)があり、「言葉は神(テオス)であった」の「神」には冠詞がないことを重視。後半部分を「言葉(イエス・キリスト)は神のようなものであった」[23]と主張する。一方、伝統的諸教会は冠詞の有無によって区別されないとし、「言葉」はイエス・キリストを指し、このイエス・キリストが神と呼ばれていると解釈する[24][25]。さらに、ヨハネの福音書において、1:6、1:18(前半)等16箇所においての「神(エホバ)」について、冠詞がないことも指摘する。
    • これについて、エホバの証人は、「神」という称号はエホバ固有のものではなく、ヘブライ語聖書ではイエス(イザヤ9:6)やみ使い(詩編8:5)、ギリシャ語聖書では悪魔サタンにも用いられており(コリント第二4:4)、しかもヘブライ語エールには冠詞がない(”God”と”a god”の区別がない)ため、福音書筆者がヘブライ語聖書から引用して「言葉」(イエス)を「神(God)」と呼んでも問題なく、それがエホバとイエスが同格だという意味ではない、と考えている。[26]また、西暦初期のギリシャ語を翻訳した古代コプト語訳のヨハネ1:1が、新世界訳と同様に訳していることにも注目している。[27]
  • 聖書の翻訳において特に問題となるのは神とキリストとが平行して言及されている箇所の訳し方である。ギリシャ語には「AとB」という表現が「AであるB」と読みうるという文法上の問題がある。それは「神とキリスト」という表現が「神であるキリスト」と読みうることを意味している。このような問題を生じさせているすべての句において本書は「神とキリスト」の読みを採用した。[28]
    • テサロニケ第二1:12においては本書と新共同訳聖書口語訳聖書が「神とキリスト」の読みを採用し、新改訳聖書が「神であるキリスト」の読みを採用している。
    • ペテロ第二1:1においては本書と新共同訳聖書口語訳聖書が「神とキリスト」の読みを採用し、新改訳聖書が「神であるキリスト」の読みを採用している。
    • テトス2:13においては本書と「新アメリカ聖書」(英語)、「現代英語の新約聖書」(英語)が「神とキリスト」の読みを採用し、「新共同訳聖書」と「口語訳聖書」と「新改訳聖書」が「神であるキリスト」の読みを採用している。
      • 伝統的諸教会は一般的に、聖書がキリストの神性に言及している箇所(ヨハネ1:1、あるいは上述の句など)について、「本書の訳文は改竄されており、キリストの神性を否定する異端的な内容に書き換えられている」との批評を述べる[29]
      • 一方、エホバの証人は、上記の訳は本書固有の訳ではなく、上述のように旧約聖書でイエスも「神」と呼ばれているので、そのような問題はないと論じている。そもそも、どちらの訳し方が正しくても、上記の聖句から「聖霊が神である」という結論は得られないため、エホバの証人からすれば、上記の聖句から三位一体は成立しえないのである。

私は、フィリピンの本屋で買ったカトリックの英訳聖書をもっています。旧約新訳、アポクリファ付き。

「働かざる者食うべからず」の典拠

共産主義者の作った標語だと思っていたのですが、そうではなくて、新約聖書でした。パウロの手紙です。

テサロニケ信徒への手紙2にありました。

3:6 兄弟たち、わたしたちは、わたしたちの主イエス・キリストの名によって命じます。怠惰な生活をして、わたしたちから受けた教えに従わないでいるすべての兄弟を避けなさい。
3:7 あなたがた自身、わたしたちにどのように倣えばよいか、よく知っています。わたしたちは、そちらにいたとき、怠惰な生活をしませんでした。
3:8 また、だれからもパンをただでもらって食べたりはしませんでした。むしろ、だれにも負担をかけまいと、夜昼大変苦労して、働き続けたのです。
3:9 援助を受ける権利がわたしたちになかったからではなく、あなたがたがわたしたちに倣うように、身をもって模範を示すためでした。
3:10 実際、あなたがたのもとにいたとき、わたしたちは、「働きたくない者は、食べてはならない」と命じていました。
3:11 ところが、聞くところによると、あなたがたの中には怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者がいるということです。
3:12 そのような者たちに、わたしたちは主イエス・キリストに結ばれた者として命じ、勧めます。自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。

10 For also when we were with you, this we declared to you:
that, if any man will not work, neither let him eat.

パウロの手紙は、新約聖書の4分の1くらいを占めていますが、まあはっきり言って、気持ち悪い文書です。読んで気持ち悪い。このホモ野郎、という感じがします。しかしこのパウロの手紙が、キリスト教という宗教の風土とか文化をよく表しています。というか、キリスト教の風土や趣味を作ったのがこれらの文書だと思います。キリスト教という宗教は、パウロの宣教によってヨーロッパで成立した宗教です。パウロのような人は、「メシアニック・ジュー」(救世主信仰のユダヤ人)言われる人々にあたるのでしょうが、どっちにしても人を殺していた人がある時からせいいっぱいのキレイ事を言い始めたという状況です。

西洋で生まれれば、生まれながらのキリスト教徒という場合が多いのですが(東南アジアでもムスリムでも仏教徒でもない人はとりあえずキリスト教徒ということが多い)、自分でわざわざ改宗した日本人キリスト教徒は、「パウロ文書趣味」の気持ち悪い人が多いと思います。

パウロは新約聖書の筆者の中では一番インテリなユダヤ人で、「ローマ信徒への手紙」など難解な文章も書いているので、神学の対象として好んで扱われてきたみたいです。


ローマ書講解〈上〉 (平凡社ライブラリー)


聖書 – 新共同訳

私も聖書は読みますが、私が好きなのは旧約聖書の「詩編」です。”神様どうか私の敵に報復してください、私の敵を滅ぼしてください、そして私だけはお救いください”、というような祈りが延々と続くところが大好きです。人間の信仰の正直な姿を表現しており、普遍性をもっています。

安い聖書 ¥180

TEVということなので、日本聖書協会の英和対照版でも使われているTEVだとすると、わかりやすい英語だと思います。わかりやすいと言っても子供版ではないので、それなりの文法知識が必要なところもあり、中高生の英語の勉強にもなるはず。(福音派系の英和対訳聖書《「この聖書は売れません」と書いてあるようなやつ》の英語よりは、普通に英語の勉強になると思う)。
180円、送料無料。


Good News New Testament-TEV

タラントン

英語の「タレント」talentの語源はギリシャ語の「タラントン」τάλαντονです。新約聖書のマタイ福音書に出てくる「タラントンのたとえ」の縁でラテン語に入り、英語に入った言葉です。1タラントンは36キロぐらいで、銀貨で6000デナリウス(デナリオン)にあたり、典型的な労働者の日当が1デナリウスとされ、新約時代のローマの兵隊の年俸が300デナリウス程度だったので、1タラントンは、兵隊の20年分の給料と同程度になります。

「タラントンのたとえ」は、マタイによる福音書だけに出てくるイエスのたとえ話です。ルカの福音書にも似たようなたとえ(「ムナのたとえ」)がありますが、タラントンのたとえに余分な尾ひれをつけただけに見えます。福音書の中で最も古い層の伝えを反映していると言われるマルコによる福音書には出てきません。

「タラントンのたとえ」はだいたい次のような話です。

ある人が、旅に出る時、3人の僕に財産を預けて行った。それぞれの「能力に応じて」、5タラントン、2タラントン、1タラントンを託した。5タラントンと2タラントンを託された僕は、それで商売をして、それぞれ倍にしたが、1タラントンしか託されなかった僕はそれを土の中に埋めてそのまま保管していた。主人が帰ってきた時、5タラントンと2タラントンの僕たちは、商売で増やした財産を見せ、主人に褒められた。そして「お前たちは小さなものに忠実であったから、より多くのものを管理させよう」と言ってもらえた。ところが、主人を怖れて、少なくとも減らさないようにと土に埋めておいた1タラントンの僕は主人の怒りを買う。「どうして銀行に入れて置かなかったのか。そうすれば利息がついただろ」といわれ、怒られただけでなく、その1タラントンも取り上げられて10タラントンの僕に与えられ、「役立たずの僕」は「外の暗闇」に放り出される。「だれでも持っている者はさらに与えられて豊かになるが、持っていない者はその持っている少しのものも取り上げられる」というのがこのたとえの結び。

こういう法則を欧米ではMatthew effectというそうです。この喩えの解釈についてはキリスト教徒の間では「ありがたい解釈」があるのでしょう。しかし、キリスト教が資本主義(近代資本主義にかぎらず金融経済)に馴染んだのは、こういう教えが入っているからではないかと私には思えます。

ちなみに、1タラントンの僕の主人に対する言い訳は、「あなたは蒔かないところからも刈り取り、散らさないところからもかき集める厳しい方だと知っていたので、恐ろしくなって地下に隠しておいたのです」というものでした。主人の方もそれをそのまま認め、「そうと知っていたならなぜ銀行に入れて置かなかったのだ」と叱りつけるのです。聖書の神はそういう性格をもった人格神であるということです。この点に関して、1タラントンの僕が「本当のことを公言してしまったから制裁を受けることになった」という解釈もあるそうです。