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「引き寄せの法則」再検討

「引き寄せの法則」再検討

私は過去のブログで「引き寄せの法則」ブームを批判したが、そのとき念頭にあったのは、ほぼ、「ポジティブ思考で全て解決」的な、粗雑な言論だった。つまり「現実はあなたの心の反映に過ぎないから、ポジティブな思考をしていればポジティブな現実が引き寄せられてくる」という説である。実際今でもこのレベルの子供だましな説を唱える人も決して少なくないが、この分野のYouTubeの動画を見ていると今はもっと洗練された、巧みな理論が主流になりつつあるようだ。

最新の「引き寄せの法則」説の要点は次のようなものである。

「引き寄せの法則」とは、あなたの現在の心の「あり方」が、同じような「あり方」を現実として引き寄せてしまうことである。例えば、仮にあなたが女日照りで、女が欲しいとする。そこであなたがいくら女をくださいと祈り女をイメージしても女は引き寄せられてこない。むしろ、女が欲しいという欲求の前提となっている「自分は女日照りだ」という現実をさらに引き寄せてしまう。だからあなたはずっと女日照りのままである。何かを欲しいと強く願うことは、それが「欠けている」、不足しているという自己イメージを強く肯定することであり、「自分にはそれが欠けているから欲している」という現実を、結果として引き寄せることになる。あなたは相変わらず不足を感じ、欲し続けるであろう。従って、ある現実を引き寄せたいなら、それがすでに得られているように振る舞うべきである。すでに得られているような心のあり方をすべきである。欲しいと思うものはすでに得られていると信じ、すでに得られているような心のあり方を保つことができれば、現実はおよそあなたの思いのままになるであろう。

なかなかハズレのない、スキのない理屈ではないか?

実際には、苦境にあって安楽を得られたような「心のあり方」を維持できる達人はほとんどいないから、ほとんどの人は足切りされ、この法則の妥当性の判断材料には入ってこない。なんのかんのと言いながらもともと結構勢いのある人だけが資料になるから、この法則はほぼハズレなく妥当することになる。

この精巧な思想は、聖書の言葉の解釈のようでもある。
曰く、
「持っている者はさらに与えられ、持たざる者は僅かに持っている物も奪われる」
「心に願う物はすでに与えられていると信じなさい」
など。
もっとあるかもしれない。

「引き寄せの法則」は、もちろん「スピリチュアル」であり、オカルトである。金持ちになるにはどうすれば良いかから入って、必ず「高い波動レベル」「ステージ」「宇宙の意志」と言うような話になっていく。「神」とはっきり言う者もいる。

「引き寄せの法則」の聖典らしい「ザ・シークレット」という本の内容が、YouTubeにも上がっているが、初っ端から過激である。

今の世界では、1パーセントの人が世界の全ての富の大半を所有しているが、それがまさに「引き寄せの法則」が働いている証拠である、という。

また、「引き寄せの法則」論者は言う。「正しい、とか、正しくない」ということを考えるべきではない。それはネガティブな心のあり方である。「ジャッジ」してはいけない。「人を裁くな」。

なるほど、そうかもしれない。イエス・キリストも「人を裁くな」と教えている。それに、上手に生きるには、正しいとか正しくないということにはこだわらないのが良い。

しかし、彼らは、神(のような存在)を認めながら、正義を顧みない「引き寄せの法則」の働きで、1パーセントの人間が人類の富を独占していることも、こだわりなく全肯定するのだ。神がそのような法則を裏書きしているということになる。

イエス・キリストが現在流行っている「引き寄せの法則」説を聞いたらどんな感想を漏らすか、聞いてみたい気がする。

…………..

「引き寄せの法則」再考 | Kuantanlog 

November 4, 2013

https://kuantan.me/2013/11/04/%e3%80%8c%e5%bc%95%e3%81%8d%e5%af%84%e3%81%9b%e3%81%ae%e6%b3%95%e5%89%87%e3%80%8d%e5%86%8d%e8%80%83/

牧師の説教とは随分違う

東方正教会司祭の説教より

http://ift.tt/2mDQkiW

牧師の説教とは随分違う。
以下一部引用。

>
神が存在するということ、神の子が処女の胎から人として生まれたこと、十字架による罪の赦し、ハリストスの復活、教会に溢れる聖神の恵み、ご聖体が主のお体や血であること、再臨と最後の審判、こんな途方もないことをさらりと「信じられる」と言えるとしたら、その人は嘘つきか病気、また宗教を「商売」にしている人です。そうでなく、「信じられないこと」を潔く認めた上で、それでも「信じる」ことを「不退転の決意」として決意し、そこに人生の一切を、生も死も、ゆだねきる、即ち「信じる者になる(イオアン20:27)」、これが信仰です。「ハリストスというお方を己の人生に迎え入れる、そうすれば俺は新しい自分によみがえることができる」、そう信じる生き方に躍り込む、そこから信仰は始まります。スイッチを入れるのです。

「罰」だと思うと少し気が楽になるのは事実

神罰 (叢書・ウニベルシタス)

日本人が旧約聖書などを初めて読むと、ヘブライ人の神はどうしてあんなに残忍で、酷薄で、嫉妬深く、不条理なのか、不自然な感じがして馴染めないのが普通だと思う。神様から、お前たちにあの土地をやるから、そこを攻めて原住民を皆殺しにしろ、と命令されたのに、侵略して占領はしたが、原住民を一部見逃して皆殺しにはしなかった、というようなことも神に背いた「罪」とされる。それが後々までも祟ることになる。イスラエルに都合の良いことが書いてあるというだけでなく、書き手が自ら好んで罪深い者になりたがっているような気配さえ感じられる。人間の目には良さそうに見えることでも、「神の目」には「罪」であり、人間は罪から逃れることがほとんどできないということを言いたいのだろうか。また、人間の目には不条理に見えることでも、神の目には正当であり、不条理な苦難と思われることでも当然の罰である、というのだろう。

自分が生まれてこの方さっぱりついておらず、良いことが何も無く、特別悪いことをしたつもりもないのに、自分に対しては悪いことばかり起こり増えていく、という時、これを不条理だと思うとまさに不条理でしかないが、これは神意である、自分には理解できない人間の理解を超えた神の論理があり、これがきっと自分にふさわしい「罰」であるに違いないと思うと、少し気が楽になるものだ。まぁ、オレは存在自体が天罰だと思っていれば間違いない。ダメな人間の実例として創造され、ダメな人間がどういうふうにもがき苦しむかを示すために生かされ、ダメなものからはダメなものしか生じず、ダメなものはますますダメになり、ダメな方向を自分で選んで進んでいくという法則を世界に示すために、今後も生かされて野垂れ死にすることになるのだろう。

西洋中世の罪と罰 亡霊の社会史 (講談社学術文庫)

”ラプチャー(携挙)のプロパガンダは、こうして仕掛けられた | カレイドスコープ”

このブログはユダヤ陰謀論臭いですが、それはいいとして、
確かに「携挙」という言葉を使う連中はカルトだと見て間違いないでしょう。
危ない福音派を見分けるメルクマールになるかもしれません。

ラプチャー(Rapture=空中携挙)とは、ひとことで言えば、「キリストが空中にやってきて、信仰の深いキリスト教徒を生きたまま召し上げて、世界のガラポン=艱難から“救助”する」という考え方です。

携挙には、「艱難前携挙」、「艱難携挙」、「艱難後携挙」と、さまざまな説があります。

また、キリストの再臨についても、二度再臨説などもあります。

特に、プロテスタントの多くの人たちが待ち焦がれているのが、「艱難前携挙」です。

艱難前携挙とは、

「世界に襲い来る患難の時代の前に、キリストが空中に来られて忠実なキリスト教徒を生きながらに空中に引き上げそのまま天国に連れて行く。

その後、地上には最終戦争が起こり、殺毅と荒廃が地を覆う、そして地上の人間が死に絶える寸前になってキリストが聖徒と共に地上に再臨し、世界の軍隊を滅ぽし平和をもたらすというもの」

というもので、クリスチャンの“選民思想”をうかがわせる一面も持っているのでしょうか。

via ラプチャー(携挙)のプロパガンダは、こうして仕掛けられた | カレイドスコープ.

しるしと不思議と携挙 Neglecting Signs and Wonders is Neglecting The Rapture

すべてのクリスチャンが、キリストの弟子として、霊的な目が開かれて、現実に御国を拡大していく信仰の勇士として、前進する力を与えてくれるのが、本書、『しるしと不思議と携挙』です。携挙という、主イエスにお会いする最高の時を待ち望む姿勢が、マタイ25章でたとえられている、油を用意していた賢い娘になることであり、聖霊の力によって、しるしと不思議の働きを行い、地上最後の神の偉大な働きに入っていくことであることを教えられます。 (ジャパン・リバイバル・ミニストリーズ代表 多摩福音センター牧師 綾部裕子師の訳者あとがきより抜粋)

若者が読みたくなる新しい日本語訳聖書 「ALIVE訳」、今月リリース : 神学・教育 : クリスチャントゥデイ

若者が読みたくなる新しい日本語訳聖書 「ALIVE訳」、今月リリース : 神学・教育 : クリスチャントゥデイ.

日本人が「神」の観念をもつのは無理だな。デカルトの「省察」を読んでいてそう思った。信徒を増やして献金を巻き上げるには、日本はまだ可能性のある畑だろう。

聖書 新共同訳―旧約聖書続編つき(革装)

正教の名古屋ハリストス聖堂の司祭がかつてEmail説教で、「神を信じるなんてできないというのはもっともです。でもイイススなら信じられるのでは?」と言っていたのが妙に説得力があった。日本人のレベルにはあっている。

いろんなキリスト教会の説教をネットで読むことができるが、名古屋ハリストス正教会の説教は、引用による飾り立てやハッタリが少なく、いつもひとひねりあって、哲学的(神学的?)な思考を自然に要求するようなものが多く、水準が高い。日本のキリスト教世界の最良部分じゃないかな。Email説教を配信しているのは、正教会でも名古屋ハリストス聖堂だけみたいだ。一応おすすめ。福音派などの邪教に引っかかるよりは良い。
http://www.orthodox-jp.com/nagoya/

エホバの証人訳の聖書(新世界訳)がアマゾンで売られている

これですけど、
聖書―新世界訳 (1985年)

信者は無償で配っているはずなので、売ってはいけないはず。
ということは、ただでもらった人がアマゾンに出品してるのだろうか。

福音派などがただでくれる聖書(新改訳)にも「この聖書は売れません」と書いてあることがあるけど、あれを出品するというビジネスもありなのか。この「新改訳」もその手かも。


2012年中型12刷発行です。若干のスレ、汚れはありますが、比較的きれいだと思います。折込、書込みは見あたりません。

「エホバの証人」といえば、危ないカルトというイメージしかないが、教理を素直に見ると、少なくとも伝統的キリスト教会の「三位一体」よりはわかりやすいし、マトモなように思える。

論争[編集]

  • 伝統的諸教会は一般的に、エホバの証人をキリスト教における異端、またその本書を改竄された聖書であると考えている。そのため、本書の訳文の是非を巡って多くの論争が提起されてきた。
  • 主要な論点となるのは「三位一体」についてのテーマである。伝統的諸教会は三位一体の論理に基づいて「キリストは神性を備えており神ご自身である」「聖霊もまた、人格を持つ存在で、神性を持つ神ご自身である」と考えるが、エホバの証人は「キリストは神性を備えてはいるが神ご自身ではなかった[21]」、「聖霊は人格的なものではなく、神の活動力である[22]」と論じる。
  • 聖書の箇所ごとについての論争
    • ヨハネ 1:1:「初めに言葉がおり,言葉は(God)と共におり,言葉は神(a god)であった。(新世界訳、括弧は英語版、下線は日本語版原文)」……エホバの証人は「言葉はとともにおり」の「(テオン)」には冠詞(トン)があり、「言葉は神(テオス)であった」の「神」には冠詞がないことを重視。後半部分を「言葉(イエス・キリスト)は神のようなものであった」[23]と主張する。一方、伝統的諸教会は冠詞の有無によって区別されないとし、「言葉」はイエス・キリストを指し、このイエス・キリストが神と呼ばれていると解釈する[24][25]。さらに、ヨハネの福音書において、1:6、1:18(前半)等16箇所においての「神(エホバ)」について、冠詞がないことも指摘する。
    • これについて、エホバの証人は、「神」という称号はエホバ固有のものではなく、ヘブライ語聖書ではイエス(イザヤ9:6)やみ使い(詩編8:5)、ギリシャ語聖書では悪魔サタンにも用いられており(コリント第二4:4)、しかもヘブライ語エールには冠詞がない(”God”と”a god”の区別がない)ため、福音書筆者がヘブライ語聖書から引用して「言葉」(イエス)を「神(God)」と呼んでも問題なく、それがエホバとイエスが同格だという意味ではない、と考えている。[26]また、西暦初期のギリシャ語を翻訳した古代コプト語訳のヨハネ1:1が、新世界訳と同様に訳していることにも注目している。[27]
  • 聖書の翻訳において特に問題となるのは神とキリストとが平行して言及されている箇所の訳し方である。ギリシャ語には「AとB」という表現が「AであるB」と読みうるという文法上の問題がある。それは「神とキリスト」という表現が「神であるキリスト」と読みうることを意味している。このような問題を生じさせているすべての句において本書は「神とキリスト」の読みを採用した。[28]
    • テサロニケ第二1:12においては本書と新共同訳聖書口語訳聖書が「神とキリスト」の読みを採用し、新改訳聖書が「神であるキリスト」の読みを採用している。
    • ペテロ第二1:1においては本書と新共同訳聖書口語訳聖書が「神とキリスト」の読みを採用し、新改訳聖書が「神であるキリスト」の読みを採用している。
    • テトス2:13においては本書と「新アメリカ聖書」(英語)、「現代英語の新約聖書」(英語)が「神とキリスト」の読みを採用し、「新共同訳聖書」と「口語訳聖書」と「新改訳聖書」が「神であるキリスト」の読みを採用している。
      • 伝統的諸教会は一般的に、聖書がキリストの神性に言及している箇所(ヨハネ1:1、あるいは上述の句など)について、「本書の訳文は改竄されており、キリストの神性を否定する異端的な内容に書き換えられている」との批評を述べる[29]
      • 一方、エホバの証人は、上記の訳は本書固有の訳ではなく、上述のように旧約聖書でイエスも「神」と呼ばれているので、そのような問題はないと論じている。そもそも、どちらの訳し方が正しくても、上記の聖句から「聖霊が神である」という結論は得られないため、エホバの証人からすれば、上記の聖句から三位一体は成立しえないのである。

私は、フィリピンの本屋で買ったカトリックの英訳聖書をもっています。旧約新訳、アポクリファ付き。

「働かざる者食うべからず」の典拠

共産主義者の作った標語だと思っていたのですが、そうではなくて、新約聖書でした。パウロの手紙です。

テサロニケ信徒への手紙2にありました。

3:6 兄弟たち、わたしたちは、わたしたちの主イエス・キリストの名によって命じます。怠惰な生活をして、わたしたちから受けた教えに従わないでいるすべての兄弟を避けなさい。
3:7 あなたがた自身、わたしたちにどのように倣えばよいか、よく知っています。わたしたちは、そちらにいたとき、怠惰な生活をしませんでした。
3:8 また、だれからもパンをただでもらって食べたりはしませんでした。むしろ、だれにも負担をかけまいと、夜昼大変苦労して、働き続けたのです。
3:9 援助を受ける権利がわたしたちになかったからではなく、あなたがたがわたしたちに倣うように、身をもって模範を示すためでした。
3:10 実際、あなたがたのもとにいたとき、わたしたちは、「働きたくない者は、食べてはならない」と命じていました。
3:11 ところが、聞くところによると、あなたがたの中には怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者がいるということです。
3:12 そのような者たちに、わたしたちは主イエス・キリストに結ばれた者として命じ、勧めます。自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。

10 For also when we were with you, this we declared to you:
that, if any man will not work, neither let him eat.

パウロの手紙は、新約聖書の4分の1くらいを占めていますが、まあはっきり言って、気持ち悪い文書です。読んで気持ち悪い。このホモ野郎、という感じがします。しかしこのパウロの手紙が、キリスト教という宗教の風土とか文化をよく表しています。というか、キリスト教の風土や趣味を作ったのがこれらの文書だと思います。キリスト教という宗教は、パウロの宣教によってヨーロッパで成立した宗教です。パウロのような人は、「メシアニック・ジュー」(救世主信仰のユダヤ人)言われる人々にあたるのでしょうが、どっちにしても人を殺していた人がある時からせいいっぱいのキレイ事を言い始めたという状況です。

西洋で生まれれば、生まれながらのキリスト教徒という場合が多いのですが(東南アジアでもムスリムでも仏教徒でもない人はとりあえずキリスト教徒ということが多い)、自分でわざわざ改宗した日本人キリスト教徒は、「パウロ文書趣味」の気持ち悪い人が多いと思います。

パウロは新約聖書の筆者の中では一番インテリなユダヤ人で、「ローマ信徒への手紙」など難解な文章も書いているので、神学の対象として好んで扱われてきたみたいです。


ローマ書講解〈上〉 (平凡社ライブラリー)


聖書 – 新共同訳

私も聖書は読みますが、私が好きなのは旧約聖書の「詩編」です。”神様どうか私の敵に報復してください、私の敵を滅ぼしてください、そして私だけはお救いください”、というような祈りが延々と続くところが大好きです。人間の信仰の正直な姿を表現しており、普遍性をもっています。