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牧師の説教とは随分違う

東方正教会司祭の説教より

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牧師の説教とは随分違う。
以下一部引用。

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神が存在するということ、神の子が処女の胎から人として生まれたこと、十字架による罪の赦し、ハリストスの復活、教会に溢れる聖神の恵み、ご聖体が主のお体や血であること、再臨と最後の審判、こんな途方もないことをさらりと「信じられる」と言えるとしたら、その人は嘘つきか病気、また宗教を「商売」にしている人です。そうでなく、「信じられないこと」を潔く認めた上で、それでも「信じる」ことを「不退転の決意」として決意し、そこに人生の一切を、生も死も、ゆだねきる、即ち「信じる者になる(イオアン20:27)」、これが信仰です。「ハリストスというお方を己の人生に迎え入れる、そうすれば俺は新しい自分によみがえることができる」、そう信じる生き方に躍り込む、そこから信仰は始まります。スイッチを入れるのです。

宿の主人は正教会の信徒だった。

今泊まっているベトナム、ハーティエンのホテルHoa Hiepのロビーのテーブルにこんな写真が。読めないが正教会のイコンだと思う。女主人にコレは?とジェスチャーで聞くと(英語は全く通じない)、そうだという風に自分を指して笑顔で頷いていた。旧ソ連の影響?ソ連崩壊とともにロシア正教がベトナムで「復活」したのか。ベトナムの南の果ての町に、カトリックや福音派やイスラムならともかく、正教徒がいるとは思わなかった。正教会は教会での典礼を重んじるが、教会らしいものは見かけない。

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そう言えば、正教会の礼拝を見学した。

ニーチェが「アンチクリスト」で「秘密集会の臭い」という言葉でキリスト教を批判していたのが印象的だった。確かにキリスト教というのはもともと非合法のカルトで、地下活動、秘密集会をしながら細胞を増やしていって、しまいにはローマ帝国を乗っ取るところまで行った宗教である。その原初の伝統を守っているというのが正教だということで、確かに、「機密」がどうのこうのという言葉遣いからして、カルトっぽいところが残っていると思う。

東方正教会 (文庫クセジュ)

事前に同意を得て某教会の礼拝を見学したが、非信者は会堂の中には入れない。扉の外で立っていなければならない。その日は、よくわからないが偉い人が来た日だったので、特に長かったのかもしれないが、儀式は3時間にも及んだ。その間中、信徒たちはほとんど立ち続け、合唱団は立って歌い続けていた。合唱はそれほど耳に快い音楽でもなかった。Divna Ljubojevicのアカペラみたいなのを期待すると失望する。

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文字通り大袈裟な、袈裟のようなキラキラの僧服を来て、頭にこれまたいかがわしい王冠のような冠をかぶった偉い人が、率直に言って、薄汚いオーラを振りまいていた。聖職者たちの立ち居振る舞いが全体的に雑で、優雅さがない。躓いて転ぶ坊主もいた。肩に袈裟をかけた若い聖職者は、目つきが悪かった。大事な礼拝によそ者が来ていたのが嫌だったのだろうが、そのわりに一挙手一投足から「神聖さ」が伝わってこない。この点では、やはり東洋の宗教には及ばない。悪い印象をもったわけではないが、全体に安っぽく、どうしてもインチキ臭いものを感じるのだ。イスラム教の場合は(私の知っているイスラム教の場合は)、インド系宗教の繊細さはないが、全員参加の勢いと高揚感でカバーするので、信徒かどうかに関係なくそこにいて礼拝に参加できているだけでもカタルシスを得ることができるが(シーア派の場合、礼拝しながら泣き崩れる人も何度か見た)、正教の礼拝はダラダラと時間ばかり長く、盛り上がるところがなくて、見ていても退屈だった。

あえて言えば、「聖体拝領」が儀式の頂点だったのかもしれない。まぁ、非信徒にとっては、見ていて気持ちの良いものとは言えない。司祭が同じスプーンで並んでいる信徒たちみんなの口に順番にドロッとしたパン切れを入れていくようである。その後、安宿のカフェテリアのポットみたいなのに入ったワインらしきものを注いでもらって飲んでいた。東欧系らしい信徒も何人か来ていて、中には若くて美しい女性もいたが、聖職者たちはみんなちょっと薄汚い雰囲気の日本人ばかりである。ヨーロッパ人信徒は、自分たちのほうが本家で本物だと思っているだろう。ちょっと薄汚い雰囲気の日本人の神父の前で口を開け、スプーンで口の中にドロッとしたパン(ワインに溶かしてあるらしい)を入れられて内心気持ち悪いと思わないのだろうか。などと思いながら見ていた。

ろくでなしのロシア─プーチンとロシア正教

ロシア正教のイコン (「知の再発見」双書)