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デカルト解説者が

省察 (ちくま学芸文庫)

デカルト解説者に限らないかもしれないが、デカルト解説者が「デカルトの神は哲学的な神であって、宗教的な神ではない」と言っているのに一番違和感を覚える。こんな都合の良い言い訳をどうしてできるのか。だからただの観念論と蔑まれるのではないのか。

「神」が人間の作った「分野」に従属して分裂を起こすのか?神という以上は、唯一不可分の絶対的な存在でなければならない。デカルトも絶対善であることを神の属性としている。絶対善なる存在を、哲学的・論理的に証明できると思い込んだのがデカルトの大間違いであろう。私(われわれ)が「より不完全な」存在であることすらデカルトは証明できていない。

心理学者も心理学の神を勝手につくり上げることがある。そしてそれは宗教的な神ではないと言いはる。これも極めて穢らわしい理屈である。木村敏を解説している人が、木村敏の説く全体性とか生命(正確な用語は忘れたが、神としか言いようがない)について、宗教でなく科学なんだと書いていたが、まったくインチキだと思う。木村敏は明らかに宗教的であり、神を求めることしか統合失調症の理解の道はないと結論していると言うべきだ。心の病理を考える (岩波新書)

人間が誤りを犯すことと「自由意志」

省察 (ちくま学芸文庫)

神は人間に、不完全な理解力しか与えなかった。
しかし、神は人間に、神と同質の「意志」のちからを与えた。意志の本質は自由であるから、意志とは「自由意志」である。
このことが、人間が誤りを犯す原因になった。

なお、「省察」では述べられていないが、神が人間に自由意志を与えた理由について、キリスト教では(一般的に)神の人間への「愛」からである、と説明している。人間がその自由意志によって神を愛するまたは神の愛を受け入れることを、神は人間を愛するがゆえに望んでいるからだという。(ただし、福音派は、人間を試みふるいに掛けるため、などと主張する。あるいは、自由意志を与えたのは神の愛であるが、救われる人は初めから決まっていて、「メシア」はそのあらかじめ選ばれている人たちを探しに来るだけ、と説明したりする)。

人間の誤謬と「壊れた時計」

省察 (ちくま学芸文庫)

最高に完全で善である神の被造物である人間が欠陥をもち、誤謬を犯す。
このことに多くの人が「躓き」、神の存在を疑ってきた。
まず、第一に、不完全なものは完全なものの原因とは成り得ないが、完全なものは不完全なものの原因となり得る。完全に自由な存在は、不完全なものや誤ったものを創造する自由をももつ。
しかし、完全であり善である存在が、善でないものを創造するとは考えられない。ただし、そのような存在が、個別の人間に、その善性や完全性のすべてを注ぎ込まなければならない理由もない。個別の人間は完全な全体の一部であるとすれば、その個別性において誤る必然性をもつことがあってもやむをえない。

壊れた時計は正しい時を刻まない。正常に機能している時計は正しい時を刻む。しかし、壊れた時計も正しい時計も、まったく同じ自然法則の支配を受けて存在し動いているという点では変わりがない。
個別の人間が過つことも、壊れた時計と同じで、善なる完全な存在によって創造されていることと矛盾しない。

自然法則が刹那刹那に物体に働きかけているように、人間の存在も、因果的にのみ存在しているのではなく、一刹那ごと完全な造物主によって創造されている。人間は自己を保存する能力は持たない。われわれは保存されるのでなく常に創造されている。

このようなことも書かれてあったと思う。

もう少しで分かりそうでわからないこと「神の存在は、ただその本性の考察だけから認識される。」

デカルト「省察 (ちくま学芸文庫)」より

証明

或るものが、何らかのものの本性あるいは概念のうちに含まれる、ということは、それがそのものにおいて真である、というのと同じである(定義九より)。しかるに、神の概念のうちには必然的存在が含まれる(公理十より)。それゆえ、神について、神のうちには必然的な存在が在る、あるいは神は存在するということは真である。

定義九 あるものが何らかの事物の本性あるいは概念のうちに含まれる、とわれわれがいうとき、それはその事物において真である、あるいはその事物について肯定されえる、というのと同じことである。

公理十 あらゆるものの観念ないし概念には、存在が含まれる。なぜなら、われわれは存在という観点のもとにおいてでなければ、何ものも概念し得ないからである。すなわち、制限されたものの概念のうちには、可能性ないし偶然的存在が含まれ、しかし最高に完全な存在者のうちには、必然的で完全な存在が含まれる。

 

(私のコメント)

デカルトはオカルトでも狂信者でもなんでもなく、偉い数学者であり、科学者です。

しかし、これは証明になっているのでしょうか。神の概念のうちには必然的な存在があるので(つまり概念的にある)、神は必然的な存在者である、と言っているように読めますが、そうだとすれば、唯物論者の言う転倒した観念論そのものではないでしょうか。

方法序説のほうがまだ説得力があります。

私はまずすべてのものを疑ってかかる。足を失った人も足の痛みを覚えることがある。夢を見ている人は確かに物を見ている。だから、私の足も、それが見え、感じられるからと言って、確かに存在するとは言えない。ただ、私が今、こういうことを考え疑っているという事実は明晰判明に確かであり、真である。

疑うためには疑う存在がいなければならない。だから私が疑っている以上、私は存在する。これだけは確かである。

ところが、私は、知るということがあることも知っている。私は疑うことしかできないはずなのにのに、知るという疑うことよりも完全なことがあることを知っている。不完全な私がどのようにしてこの完全なものの存在を得ることができたのか。完全なものの観念は、疑うことしかできない不完全な私にどこから吹き込まれたのか。それは外からでしかありえない。しかも外にある完全なものからに違いない。だから私が完全で最高の存在の観念をもつ以上、完全で最高な存在が私の外になければならない。

というのが方法序説の趣旨で、それなりに説得力があると思うのですが、「省察」になると、学生時代に民青の人に教わった「ただの観念論」としか読めないのです。

偉い人のご教示をお待ちしています。

デカルトの「省察」を読んだが、難しかった。

頭が老化してることもあるんだろうけど、

 省察 (ちくま学芸文庫)

昔、方法序説を読んで「デカルトはわかった」つもりになっていたが、そんな簡単なことではなかった模様。

やっぱり、スコラ哲学を地道に勉強してないと、デカルト以降も理解できないのだろう。

カントは「哲学は40歳を超えてから」と言ったそうだが、40超えると頭が錆びつくので、勉強するのは40まで、自分で考えるのは40から、みたいな意味だろうな。