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キリスト教はお金を取る。イスラム教はお金をくれる。

イスラム―癒しの知恵 (集英社新書)

中東にもキリスト教徒は少なくないのですが、中流以上や富裕層が多く西洋的な教育を受ける機会がある人が多いのだという。それに対して、多数の貧困層はムスリムが多い。

どうしてそういうことになるのだろうか。

立派な信徒になるために「勉強」が必要という点では、イスラム教のほうが厳しいはずです。クルアーンはアラビア語原典以外は認められず、暗唱できなければならないし、ギリシャ哲学と結びついて発展したので神学理論も難解です。だから、立派なムスリムになることは貧困層には難しい。ただし、一応ムスリムになるだけなら、簡単な告白だけでムスリムと認めてもらえる。あとは、どういう共同体の仲間になるかだけでしょう。そして、イスラム共同体では、貧しい信徒には施しがなされることが多いようです。マレーシアのように、国家がマレー人(ムスリム)に限って生活保護を優先的に出す国もある。私もイランのマスジェデを見学していたとき、「お金に困っているフィリピン人」と間違えられてもう少しで施しを受けるところでした。

これに対して、キリスト教は信徒からカネを巻き上げるのに熱心な宗教です。昔々、東京に住んでいたころ、福音派の教会に出入りしたことがありましたが、パンフレット等を見ると献金の要請がやたら目立つ。お布施が信仰の証であり、信仰を行為で示すことであるかのような書きぶりで、日本語の文章としてはしつこいくらいお布施を要求していました。(私は信徒にならなかったので一円も出しませんでしたが)。

キリスト教も「異邦人」向けのカルトとして成立した宗教なので、本来間口は広いはずです。知識よりも「信仰」が重視されるらしい。信徒になりやすい点ではイスラム教と変わらない。ただし、キリスト教はカネにがめついところが違う。信徒はお金をせびられる。イスラム教の場合はすごい金持ちが献金して、貧乏人にはお金をばらまくようだ。その結果、中流や普通の金持ちはキリスト教に傾き、貧乏な人がイスラム教に行く(または残る)ようになっているのではないか。

ただ、キリスト教もイスラム教も、仏教も、基本的に「新興宗教」であり、信仰とか信心だけで仲間に入れてくれる宗教という点では同じです。世界全体から見れば「信仰」があれば受け入れてくれるという宗教のほうが少なく、血が繋がっていなければダメという宗教のほうが(宗教の数としては)多いと思います。

「ウサギのように」多産な必要はない 【ローマ法王がフィリピン人信徒に対し】

バチカン近現代史 (中公新書)

教皇フランシスコ

ローマ法王―二千年二六五代の系譜 (中公文庫)

英語報道によれば、Christians do not need to breed like rabbits.というような表現を使ったらしい。breedとか、like rabbitsというのは、人間に対して使うのに適切な表現なのだろうか。

避妊を禁じておきながら、産むなというのもかなり無理がある。要するに、セックスを忌避せよということだろう。新約聖書のパウロの思想を発展させたものと言える。(パウロは「結婚もしないほうが良いが、悪いことをしてしまうよりはマシなので、我慢できない人は結婚して性欲を処理しなさい」と教えているので、結婚したら自由にセックスをしても良いということになる。ローマ教皇の主張は結局、結婚してもそうケモノみたいにセックスするな、ということを意味することになる)。

フィリピンのカトリック信者たちは、ローマ教皇に「うさぎ」に譬えられて何の不満も感じないのか?

ローマAFP=時事】ローマ・カトリック教会のフランシスコ法王は19日、良いカトリック教徒であるために「ウサギのように」産み続ける必要はないと語り、信者らに責任ある家族計画を求めた。(写真はフィリピン・マニラでミサを行うフランシスコ法王)

世界のカトリック教徒12億人を率いる法王は、訪問先のフィリピンから帰国する機内で記者団に対し、人工的な避妊を禁じるカトリック教会の教えを擁護する一方で、必ずしも信者らに「次から次へと子どもを産み続ける」ことを求めているのではないと語った。

via 時事ドットコム:「ウサギのように」多産な必要はない、ローマ法王が信者に訴え.

イエズス会の世界戦略 (講談社選書メチエ)

教会領長崎 イエズス会と日本 (講談社選書メチエ)

新・先住民族の「近代史」: 植民地主義と新自由主義の起源を問う

ローマ教皇とナチス (文春新書)

【教会で英会話】英会話が上達する「心構え」から「アプリの使い方」まで【海外在住の日本人が専門家に訊く!】

http://dmm-news.com/article/910496/

「外人の集まる教会へ行って英会話の練習をしましょう」というのは今や公然の秘密になってるようです。

キリスト教会側も当然、それを利用している。日本人の英語コンプレックス、「英会話」の強迫観念がキリスト教布教の手段になっている。「白人との国際交流」の下心も。

日本人キリスト教徒のキモ率が高いのも自然です。

どんどん話すための瞬間英作文トレーニング (CD BOOK)

”ラプチャー(携挙)のプロパガンダは、こうして仕掛けられた | カレイドスコープ”

このブログはユダヤ陰謀論臭いですが、それはいいとして、
確かに「携挙」という言葉を使う連中はカルトだと見て間違いないでしょう。
危ない福音派を見分けるメルクマールになるかもしれません。

ラプチャー(Rapture=空中携挙)とは、ひとことで言えば、「キリストが空中にやってきて、信仰の深いキリスト教徒を生きたまま召し上げて、世界のガラポン=艱難から“救助”する」という考え方です。

携挙には、「艱難前携挙」、「艱難携挙」、「艱難後携挙」と、さまざまな説があります。

また、キリストの再臨についても、二度再臨説などもあります。

特に、プロテスタントの多くの人たちが待ち焦がれているのが、「艱難前携挙」です。

艱難前携挙とは、

「世界に襲い来る患難の時代の前に、キリストが空中に来られて忠実なキリスト教徒を生きながらに空中に引き上げそのまま天国に連れて行く。

その後、地上には最終戦争が起こり、殺毅と荒廃が地を覆う、そして地上の人間が死に絶える寸前になってキリストが聖徒と共に地上に再臨し、世界の軍隊を滅ぽし平和をもたらすというもの」

というもので、クリスチャンの“選民思想”をうかがわせる一面も持っているのでしょうか。

via ラプチャー(携挙)のプロパガンダは、こうして仕掛けられた | カレイドスコープ.

しるしと不思議と携挙 Neglecting Signs and Wonders is Neglecting The Rapture

すべてのクリスチャンが、キリストの弟子として、霊的な目が開かれて、現実に御国を拡大していく信仰の勇士として、前進する力を与えてくれるのが、本書、『しるしと不思議と携挙』です。携挙という、主イエスにお会いする最高の時を待ち望む姿勢が、マタイ25章でたとえられている、油を用意していた賢い娘になることであり、聖霊の力によって、しるしと不思議の働きを行い、地上最後の神の偉大な働きに入っていくことであることを教えられます。 (ジャパン・リバイバル・ミニストリーズ代表 多摩福音センター牧師 綾部裕子師の訳者あとがきより抜粋)

「神の似姿」とは

イスラム芸術の幾何学 (アルケミスト双書)

ロシア正教のイコン (「知の再発見」双書)

神の似姿―テオモルフィスム

「神の似姿」というのはよく聞く言葉で、キリスト教に共通の同じ観念だと思っていましたが、そうでもないようです。

人間が神の似姿に作られたというのは、旧約聖書の創世記第1章26節27節に書かれていることなので、(26節”「我々にかたどり、我々に似せて、人をつくろう。・・・・」”、27節”神は御自分にかたどって人を創造された。”)、聖書に書いてあることは一言一句その通りであるという原理主義者の「(聖書)逐語霊感説」からは、その通りだ、ということになるでしょう。(旧約聖書の第一章と第二章とは、誰が見てもまったく食い違うことが書かれているのですが、平気で並べて編集している理由がよくわかりません)。

だいたい、「逐語霊感説」のような立場を取るキリスト教徒というのは、いわゆる福音派のプロテスタントで、全体から見ればほとんど白人キリスト教徒なので、彼らにとっては、神様は白人のようなお姿をされていて、御自分に似せて人間を創った、と理解するのが自然でしょう。

カトリックでも「神の似姿」は認めているようです。→http://cathedral-sekiguchi.jp/info/column/1732/

ただ割と知られていないのは、プロテスタントやカトリックでは、人間は神の似姿として創造はされたが、罪を犯したために、完全に崩壊して原型をとどめていないと考えているらしいことです。「自由意志」も神に似せて与えられたもののはずですが、アウグスティヌスは人間の自由意志を完全否定したようです。

一言でいえば、アウグスティヌスは人間の意志を非常に無力なものとみなし、神の恩寵なしには善をなしえないと考えた。

プロテスタント各派も「全的堕落」説をとり、神の似姿は壊滅していると考えているようです。

結局の所、今でも人間は多少は神に似ていると考えているのは、正教だけのようです。正教では「神の像と肖」というそうで、「神の像」が「神に近づくための力や可能性や出発点」で、「神の肖」が「その実現や完成」だということ。人間は墮罪によって、「神の肖」は失ってしまったが、「神の像」の方は「破損」はしたがまだわずかに残っていると考えているようです。

日本人の日常感覚は性善説が多いでしょうが、日本人の一般的な「キリスト教」観は、「全的堕落」説が多いのではないかと思います。明治以来、キリスト教といえば英米の白人キリスト教徒の宗教だったので、そういう感覚になったのだろうと思います。

自由意志論 (1969年)

意志と自由―一つの系譜学 アウグスティヌス‐モリナ&スアレス‐デカルト

福音派カルトの本
みことばを生きる~聖書的霊性の理解~

田舎のキリスト教会はたちが悪い。セクトを問わず。

もっと教会を行きやすくする本―「新来者」から日本のキリスト教界へ

外部とのギャップが大きいこともあろうが、たちが悪い。

  • 上から目線(当然)
  • 偉そうな態度(これも当然)
  • 選民意識

私は東京にいた時も、実は時々教会に出入りしていたが、ハッキリ申し上げて、毛唐と英会話の練習がただでできるとか、聖書の学習会にただで参加して「善である神がなぜ悪を創造したのか」についての議論を楽しんだり、というメリットがあった。競争が激しいので、屁理屈ばっかり言う人間でも結構歓迎してくれる。

これに対して、田舎町の教会は本当に排他的。興味本位はお断りと言いたいのかもしれないが、非信徒向けの聖書読書会さえ開いていないところが多い。集会や礼拝である程度洗脳してから初めて聖書の読書会に参加させてあげますというプロテスタントの教会も多い。上のような根本的な疑問を突きつけられると答えられず、田舎社会での権威を傷つけられて困るからだろう。電話での問い合わせに対してのケンモホロロな対応とかもすごい。完全に選民意識に凝り固まっている連中だね。

聖書の勉強をするには、批判的に学ぶにしても、東京の福音派系の教会はけっこうよくしてくれる。福音派自体はカルトだが。「悪はなぜ存在するのか」なんてツッコミにマジメに答えてくれるだけでも、個々の信徒には善意があるといえるだろう。田舎の教会なんかでそんなことを言ったら、連中はすぐに怒りだして追い出されることになるだろう。

表現の自由はなぜ尊重されなければならないのか

表現の自由 理論と解釈 (日本比較法研究所研究叢書)

学部などの憲法の答案なら、精神的な自由は、経済的な自由とは異なり、民主政の過程に不可欠なものだから、いったん毀損されると、民主政治の過程で回復不可能になるから、その制限は、あらゆる自由権の制限の中でも必要最小限性がもっとも厳格に要求されるものであり、したがって表現の自由を制限する立法はもっとも厳格な基準で審査(違憲審査)されなければならない・・・・というようなことをもう少し判例とか正確な用語を入れて膨らませて書けばよいと思います。

しかし実際のところ、表現の自由と言っても、名誉棄損罪や侮辱罪は昔からありますし、民主政治の過程とあまり関係のない領域も考えられます。

日本でも清岡純子写真集は昔は出版できましたが今はご法度です。18歳未満の少女のエロスを表現する図画(とが)は違法となっています。

こういうことになったのは多分に外圧もあり、キリスト教国の文明的な圧力もあると思います。イエスが、子供を抱え寄せて、このような者が天国に一番近い、このような者を躓かせる者は地獄に落ちる、という意味のことを言っており、聖書の世界で悪いことの代表は、殺人より姦淫(偶像崇拝もこれに含まれるようにも読める)なので、子供と姦淫との結びつきがもっとも罪深いものと感じられるのでしょう。

だから、児童ポルノは特別に悪である、という判断にも、宗教的な理由が潜んでいます。預言者ムハンマドが男とキスをしているグロテスクなイラストを平然と載せることは、清岡純子が撮っていたような児童ポルノよりどの程度マシなのか。私は疑問です。

イスラムは政治的な宗教なので、民主政の過程と深く関係している、とでもいうのでしょうか。