Category Archives: 法律

日本人が外国に「罪を償わせる」という傲慢さ

ゼロからはじめる法学入門

ジャーナリストの後藤健二氏がイスラム国によって処刑されたことについて、日本の安倍首相は「(彼らの)罪を償わせる」と発言したと報じられています。私はこの発言に強い違和感を覚えます。

国際社会において、「罪を償う」べき立場にあるのは日本の方なのではないか。
日本がまず罪を償い、完全な謝罪をすべき立場にあるのではないか。天皇制を存続させている以上、天皇の謝罪が必要です。日本のような国に、外国に対して「罪を償わせる」と発言する権利があるのか。

侵略戦争の責任もとらないまま、アメリカの庇護のもとに利益を得させてもらい良い思いもさせてもらってきた日本が、国際社会の場で、外国に対して「罪を償わせる」などという言葉を用いて断罪する資格があるのか。このような傲慢な発言を国際社会に発したのは、戦後は安倍首相が初めてでしょう。大変危険なものを感じます。

イスラム国も外国です。イスラム国は「テロリスト集団」に過ぎず国家ではないという意見もあるようですが、私は、勿論邪悪な国家でありますが、ナチス・ドイツも国家であったように、イスラム国も「国家」だと思います。承認している国はないかもしれませんが、国家の要件である「領域」と「人民」と「権力」を具えた政治的な実体であることは確かです。

邪悪な国家はイスラム国の他にもあります。日本がアメリカの都合でアメリカの庇護を受けて分不相応な豊かさと安全を享受しているように、イスラム国と変わらない邪悪なナチス国家でありながら、アメリカの都合でアメリカの庇護を受けて安泰に存続しているサウジアラビアのような国家もあります。

イスラム国 テロリストが国家をつくる時

満州裏史 甘粕正彦と岸信介が背負ったもの (講談社文庫)

岸信介―権勢の政治家 (岩波新書 新赤版 (368))

「自己責任」は金融商品取引用語 「自己責任」と文学

証券取引における自己責任原則と投資者保護

コンプライアンスのための金融取引ルールブック

最近、というか、この十年くらい、「自己責任」という言葉が流行しています。まるで日本人がまだよく自覚していない「近代的な自由主義の大原則」であるかのように語られているようです。

私は一応法学部というところを卒業しており、在学中もわりと授業に出ていたほうなので、それが近代的な自由主義の大原則(つまり近代法の大原則)だとしたら、いくら二流大学とはいえまったく聞いていないということはないはずなのですが、法学部の先生が教壇で「自己責任」という言葉を使うのを聞いた覚えがありません。

「個人の尊重」「個人の尊厳」「個人の自由」「個人主義」「自由主義」「私的自治」「個人意思自治」「過失責任」「連帯債務」「人格的自律の存在」「人格形成責任」などという言葉は聞いた覚えがあります。「責任主義」という言葉も聞いた。しかし「自己責任」という言葉は聞いた覚えがない。

結論から言えば、「自己責任原則」は近代法(近代自由主義)の原則でも何でもなく、単に、金融商品取引の業界用語です。

近代法の大原則は、まず「個人の自由」ということです。個人はどこまでも自由だということ。それと所有権の不可侵です。

個人は法律上も事実上も自由に行為することができます。その結果(効果)として、権利や義務が生じます。英米法では権利だけまたは義務だけ生じる契約は無効とされるようですが、日本法では贈与契約のような片務契約も完全に有効です。故意や過失に基づく行為によって他人の権利を侵害すると、その効果として損害賠償責任が生じることがあります。一方に損害賠償請求権という債権が生じ、他方に債務が生じるということです。また、犯罪を犯すと、刑事責任が生じます。つまり、犯罪行為を要件として、行為者に対する国家刑罰権が発動するという効果が生じるということです。どれをとっても、自由な行為によって権利や義務が生じるということであって、他から請求されたり非難(責任非難)されたりすることはあっても、「自己責任」というものは出てきません。流行の「自己責任」に一番近いのは、不法行為責任の「過失相殺」だと思います。

「自己責任」は文学用語だと思うべきです。「文学的な表象」に過ぎないものを、まともな「概念」だと思い込むのは、日本人の昔からの悪い癖です。「自己責任」を唱える者は、自分のしゃべっている言葉の意味がまったくわかっていません。文学とはそういうものです。他人が感心してくれさえすれば自分が何を言っているかもわからないタワゴトでも良いのです。「文学」だからです。

自己責任論の嘘 (ベスト新書)

責任という虚構

イスラム教徒として言おう。「言論の自由」原理主義者の偽善にはもう、うんざりだ | Mehdi Hasan

はっきりさせておこう。ジャーナリストや漫画家を撃ち殺すことに正当性は一切ない。それは私も同意する。だが、人の神経を逆撫でする権利に責任が伴わないという主張には、私は同意できない。神経を逆撫でする権利は、逆撫でする義務になるわけではないのだ。

via イスラム教徒として言おう。「言論の自由」原理主義者の偽善にはもう、うんざりだ | Mehdi Hasan.

立憲主義の意味も理解できない日本人に「憲法」が書けるわけがない→ :「憲法自らの手で書くべきだ」=安倍首相

時事ドットコム:「憲法自らの手で書くべきだ」=安倍首相.

明治憲法が発布された時、ほとんどの日本人は「天子さんが絹布の法被を着なさるそうだ」としか理解できなかった。

今も立憲主義についての理解はその程度。

日本人に、これだけ大きくなってしまった日本国の憲法を書かせることは、暴挙と言わざるを得ない。核をもたせるのと同じくらい危険なことだと思う。

これに反対する人は、立憲主義の基本(たとえば憲法の制限規範性の意味)もまったくわかっていない人たちだと思う。

日本国憲法論 (法学叢書 7)

シャルリーエブドが襲われたのは自業自得だと思います。

Before Charlie Hebdo: French Terrorism During The Algerian War (English Edition)

私はシャルリーエブドほど悪趣味ではないので、挑発してアクセスを稼ぐためにこういうことを書くのではありません。

ここ2,3日ツイッター等でいろんな人の意見を見たり、マスコミの評論を読んだりして、自分なりに考えてみましたが、やはり自業自得だと思う。シャルリーエブドがどういう漫画を載せていたのか(漫画というものはもっと高尚なものなのでCartoonというべきかもしれませんが)もよく見たほうが良いと思う。

「表現の自由」などの自由権は、基本的に、個人と国家の関係を律するものです。新聞社や出版社が役所の検閲を受けたり、発禁処分を受けたり、記者が拘束されたりした場合には、シャルリーエブドであろうとなかろうと、言論表現の自由の明らかな侵害になります。

しかし、言論の自由もその他の表現の自由も(シャルリーエブドのは「言論」ではないと思いますが)、「大方の顰蹙を買わない権利」や、「人を怒らせない権利」、「第三者の怒りからも自由でありうる権利」までは保障していません。

人権規定が私人間にも適用されるかという問題は、憲法学の専門的な議論であり、私がここで正確に述べることはできませんが、基本的には自由権は私人間には直接は適用されません。

「自由に喋らない」「勝手なことを言わない」という契約も、内容次第では有効です。そういう職場はいくらでもあるはずです。ただ、その契約の内容があまりにも行き過ぎていて、人権の本質を無にするようなものである場合には、「公序良俗違反」としてそのような契約は無効になることはあります。また、言論が民事上の不法行為とされる場合もいくらでもあります。刑事罰の対象になる場合もあります。刑法の名誉棄損罪や侮辱罪、民事上の名誉毀損によって不法行為責任を問われることは、憲法の表現の自由の保障に反するものではないと解釈されています。これは日本に限らないことです。

要するに、シャルリーエブドには「表現の自由」があり、フランスの役所や警察によって検閲されたり発禁処分を受けたり記者を逮捕されたりしない権利はありますが、「第三者(国家とシャルリエブド以外の者)の怒りを買わない権利」はないし、第三者の感情を害したことについて法的な責任を問われることもありうる、と私は信じます。フランスの法制がどうなっているか知りませんが、私の人権思想においてはそう言えるということです。

もちろん、人の怒りを買ったとしても、殺されなければならないということはありません。怒ったとしても、人を殺すことが違法であることは明らかです。みだりに生命身体を害されないということも基本的人権の基本中の基本です。だから、テロ犯の行為が悪いことであり、違法であることは言うまでもありません。しかし、そのことは、シャルリーエブドの言論の自由とは関係のない、別問題です。人を殺したものは、処罰されなければなりません。それは、殺された人が誰であろうと同じことです。ジャーナリストを殺したから通行人を殺したよりも罪が重い、というようなことがあったとしたら、それこそ平等原則に反するでしょう。

テロ犯の行為は明らかに「不正義」ですが、だからといって被害者側になんらかの「正義」があったわけではなく、そのように推定される理由もありません。

表現する者は、自分の表現の影響力を自覚すべきでしょう。もちろん、それは法的な義務ではありませんが、事実上の責任です。

シャルリーエブドにはどんな表現の自由もありますが、相当の影響力を持つメディアでありながら、ことさらある人々を刺激し彼らの怒りをかきたてることが明らかな表現をする以上、違法なものであれ現実に怒りの噴出を、報いとして受けることがありうることは、覚悟すべきだったと思います。

繰り返すと、シャルリーエブドには表現の自由があります。しかし、その表現による人の怒りを抑えつける権利はありません。シャルリーエブドの表現に怒る自由も万人に保障されています。これも思想の自由、表現の自由です。その怒りを「殺人」という形で表現することは違法です。ただ、現実には、違法な報復がなされる可能性は高く、それは容易に予測できたことです。

私も、もし実名と住所を晒しているなら、「天皇一族を処刑せよ」どころか「天皇制を廃止せよ」とさえ書かないでしょう。それは卑怯だからでなく、むしろ節度です。身元を晒してする発言は、匿名の発言より影響力が大きくなります。私はそうすることが正しいと信じていますが、社会人としてそういう発言をする以上は相当のリスクを覚悟すべきなのは当然だと思うからです。

名誉毀損―表現の自由をめぐる攻防 (岩波新書)

生活保護「現物支給」を主張する者は、「住居」「タバコ」「酒」「本」をどう考えるのか

低所得者に対する支援と生活保護制度 第3版 (社会福祉士シリーズ 16)

まず「住居」ですが、彼ら「現物支給」論者は、「限界集落」に「救貧院」を作って押し込めろ、ということを平然と主張しています。

現在でも、居住者がほとんんど生活保護受給者ばかりというアパートは存在していますが、彼ら現物支給論者の主張は、生活保護を求めるような者には憲法22条の「居住、移転、職業選択の自由」を認める必要がなく、保護の条件として公権力がいわばゲットーに押し込めても構わないということです。つまり、彼らはそういう思想の持ち主だということ。なお、職業についている場合にも、収入が生活保護基準を下回っている場合は生活保護による補填を受ける権利があるので、「限界集落の救貧院」に押し込めるということは、貧者の職業選択の自由も「保護」と引き換えに奪って良いということになります。国民年金(6万円)の場合も同じ。

「救貧院」など作ったら、その場所だけでなく、その周辺も、「特殊な地域」ということになるでしょう。日本だということを忘れてはならない。千年祟る新たな「部落問題」の原因を作るようなものです。救貧院経営の効率性を考えると

次に、タバコと酒ですが、私はタバコも酒もやらないし、タバコは大迷惑なので日本中の人がやめてくれれば良いとは思っているのですが、現物支給論者は、これも現物で支給せよというのでしょうか。あるいは禁止しろということでしょうか。ニコチン中毒やアルコール中毒は医療の力で治療すべきでしょうが、それに至らない「嗜む程度だが必要」な喫煙や飲酒にはどう対処するのか。医者にニコチンとアルコールを処方させろとでも言うのか。通常の喫煙や飲酒は、憲法13条の個人の尊重に関わるものであるし、25条の「健康で文化的な最低限度の生活」の範囲内とも言えるでしょう。

「許容しうる」のタバコと酒の量を決めて、お上がこれを現物支給すれば良いというのか。そうなると、酒もタバコもやらない人間は、その分損をしているということになります。自分は酒もタバコもやりますと申告して、現物支給を受け、横流しをしたほうが良い、となるでしょう。そのようなルートは必ずすぐにできます。

「本」はますます問題です。読書をする権利は、13条の個人の尊重に関わり、25条の「健康で文化的な最低限度の生活」に文句なく含まれるものですが、これも現物支給しろというのでしょうか。図書館で借りて読めとでもいうのか。しかし、まともな図書館は大都会にしかない。救貧院に押し込められていて交通費も支給されないのでは図書館に行くこともできない。また、常に手元において線を引いたり書き込みをしたりしながら読みたい本についてはどうするのか。お上に申告して書籍の現物支給を受けなければならないというのは、思想の自由の侵害にほかなりません。

世の中の現物はほとんどお金で買えますが、現物の大部分もお金に変えることができます。公的な現物支給が始まればますますお金に替えやすくなる。江戸時代の米使いの経済みたいなものですが、闇経済が大きくなるだけだろう。

生活保護の現物支給論者のポイントは、財政とかなんとかではなく、憲法13条の規定している個人の尊重、個人の自由がイデオロギー的に嫌いでたまらない、貧乏人どもが自由な生活をするのが気に入らない、ということにすぎません。彼らは自分の全体主義的な思想(ないし思想傾向)の表現として「生活保護現物支給」を唱えているだけです。

How to 生活保護【生活保護法改定対応版】―申請・利用の徹底ガイド

表現の自由はなぜ尊重されなければならないのか

表現の自由 理論と解釈 (日本比較法研究所研究叢書)

学部などの憲法の答案なら、精神的な自由は、経済的な自由とは異なり、民主政の過程に不可欠なものだから、いったん毀損されると、民主政治の過程で回復不可能になるから、その制限は、あらゆる自由権の制限の中でも必要最小限性がもっとも厳格に要求されるものであり、したがって表現の自由を制限する立法はもっとも厳格な基準で審査(違憲審査)されなければならない・・・・というようなことをもう少し判例とか正確な用語を入れて膨らませて書けばよいと思います。

しかし実際のところ、表現の自由と言っても、名誉棄損罪や侮辱罪は昔からありますし、民主政治の過程とあまり関係のない領域も考えられます。

日本でも清岡純子写真集は昔は出版できましたが今はご法度です。18歳未満の少女のエロスを表現する図画(とが)は違法となっています。

こういうことになったのは多分に外圧もあり、キリスト教国の文明的な圧力もあると思います。イエスが、子供を抱え寄せて、このような者が天国に一番近い、このような者を躓かせる者は地獄に落ちる、という意味のことを言っており、聖書の世界で悪いことの代表は、殺人より姦淫(偶像崇拝もこれに含まれるようにも読める)なので、子供と姦淫との結びつきがもっとも罪深いものと感じられるのでしょう。

だから、児童ポルノは特別に悪である、という判断にも、宗教的な理由が潜んでいます。預言者ムハンマドが男とキスをしているグロテスクなイラストを平然と載せることは、清岡純子が撮っていたような児童ポルノよりどの程度マシなのか。私は疑問です。

イスラムは政治的な宗教なので、民主政の過程と深く関係している、とでもいうのでしょうか。