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社説を読んでみた

思い立って各紙の社説を拾い読みしてみた。本がなく読書しないので日本語力が心配。スマホの社説アプリを使えばタダで主要紙の社説が読める。

とりあえず、中日新聞と朝日新聞の最近の社説を読んでみた。

中日新聞の社説はわかりやすいし文章も良いと思う。日本語は文章が短いほうが良い。接続詞を使ってやたら延ばすのは下手な証拠。短い文章を並べて書けるのは、内容が頭の中で論理的に整理されているからだと思う。論理的な思考力のない人に限って、文法の論理に依存しがち。中日の社説は何度か読むと凝集されてくる。構造がはっきりと浮き上がってくる感じ。インテリには物足りないかもしれない。

一方、朝日新聞の社説だが、何度読んでもピンとこないところがある。イライラする。どうしても腑に落ちないところがちょくちょくある。

例えば、29日の日ロ関係の社説http://ift.tt/1srR070 の7段目。

「 立場に違いはあっても、国連安保理常任理事国であり、北朝鮮に一定の影響力をもつロシアの建設的な関与は不可欠だ。」

とあるが、「立場に違いがあっても」というのが、変だと思う。

この前に、ロシアと米国の対立のことが書かれているので、米ロまたは日米とロシアの「立場」の違いのことだろうが、それなら「利害」のほうが良いのではないか?「立場」はいかにも冷戦時代風。

また、「立場に違いがあっても」というなら、「それでも日本は、あるいは米国は、ロシアの建設的な関与を引き出すような努力をしなければならない」などと続くべきなのに、当事者については曖昧なまま、他人事のように「ロシアの建設的な関与は不可欠だ」という描写になっている。「立場に違いがあっても」という主観的で「べき論」的な前置きと文の締めが繋がっていない。 誰がどうすべきだということは次の段落にようやく出て来る。

この文の成り立ちは不自然である。文章としてわかりにくくなっているのだが、わかりにくくするためにわかりにくくしているように感じる。一読してピンとこないように細工を凝らしているようだ。

10段落目。

「 北朝鮮に対し、米国が軍事攻撃に踏み切れば日韓両国が反撃を受け、甚大な被害を受けかねない。」

とあるが、「北朝鮮に対し」の後になぜ読点が来るのか、さっぱりわからない。意味のまとまりからいえば、「踏み切れば」の後に移動すべきだろう。

朝日新聞の社説は、論説というより文学であるようだ。

April 20, 2017 at 11:43PM

苫米地英人先生による簡単な「ネガティブ思考」対処法。

①時間は未来から過去へと流れていることを理解し定着させること。
過去は遠ざかるばかりで、追いかけて来ない。どんな過去もどんどん遠ざかる。二度と自分に追いつくことはない。

②①より、過去は未来とは一切関係がないことを理解し定着させること。

③「仮定法過去完了」で悔いないこと。
『あの時ああしていれば今ごろこんなふうになっていただろうに』という比較をしない。そういう比較をすれば『必ず敗ける』。つまり、最初からネガティブ思考にしかなり得ない比較。仮定として自分が持ち出すのは、必ず現状よりも良い結果になるはずの条件だから。必ず敗ける比較をしないこと。

④現状の外に、どうしても成就したいゴールをもち、ゴールの世界の臨場感を持つようにすること。
ゴールは現状の延長ではダメで、現状を超えたものでなければならない。ゴールができれば、頭が勝手にクリエイティブに働き、見えていなかったものが目に入るようになる。ゴールにまつわるコンフォートゾーンが形成されるであろう。←この辺は苫米地思想の要諦か?

④は難しいが、①②③は学校で教えたほうが良いくらいだと思う。

April 18, 2017 at 02:15PM

スマナサーラはどうしようもない生臭坊主だよ。生で講話を聴いたことがあるが、俗物臭プンプン。権力欲丸出し。執着の権化。
第一、彼の属する上座仏教は「輪廻転生」を全面肯定する。「釈迦はそんなこと言ってますか?」と突っ込むと、ムキになって「そんなこと言ってるからお前はダメなんだ」だと。その上、「どういう人が高いカーストに転生するか。どういう人になれば来世で高い身分に生まれ変われるか」なんて説教を大真面目で日本人の前でする。自分の知能の高さ(記憶力が凄いらしい)を自慢する。ろくでもないよ。
仏教の限界だろうね。人間はどんなエリートでもほとんど賢くなれない、ということを前提に出発していない。
スリランカの坊主なんて、もちろん自国では政治権力と結びついて腐敗しきっているが、日本に来ているセイロン坊主の評判も芳しくないよね?京都から滋賀県の某ソープランドに通いつめてたセイロン坊主もいたとか。最初は日本の坊主が接待したんだろうけど。

マジで言うが、公平に世界を眺め回して、宗教でいちばんマトモなのはイスラムです。もちろんサウジのワッハーブ派などキチガイは入らない。日本人にも受け入れられてリベラルなのはシーア派。

https://youtu.be/7AKvXICodfM

本当に有効な「アファメーション」

本当に有効な「アファメーション」

①自分というものはその性質上、自分にとっては世界の中心であり、一番の関心事であるという事実を確認すること。

その上で、

②自分は世界全体にとっては何の価値も意味もない存在であり、存在というほどのものでさえなく、誰も関心など持っていないという事実を全力で確認すること。

②の事実の執拗なアファメーションが重要だと思う。

「俺は価値がない」
「俺はそもそも価値がない」
「俺には意味がない」
「俺には生きる意味がない」

と、日ごろから繰り返し唱えることを習慣にする。

自分が損をして誰かが得をしたら、その誰かのためによろこぶように、心を習慣づける。

習慣づけに過ぎないので、高級な修行は不要。暇さえあれば繰り返すだけ。「俺には価値がない」「俺には意味がない」

今より少しでもマシな人間になりたいなら、やるべきです。

ジジイになっても我欲の塊のようなのがいます。非常に醜いです。みんな早くくたばればいいのにと内心思っています。

将来そんな爺になりたくないなら、本気で取り組むべきです。私もやっています。

ネガティブとポジティブ2

ネガティブとポジティブ2

2. ネガティブは素敵なことではないか?

途上国の最下層の生活をしている人々や、本当に困窮していると思われる人々を見る機会もありましたが、悲嘆に暮れた顔をしている人は少なく、むしろ固まった表情で感情の動きも止まっているように見える人が多かった。本当に困窮するとネガティブでもいられないようである。

ネガティブであるということは、余裕のある証拠であるだけでなく、それ自体、「豊かさ」なのではないかと思うことがある。人間はそもそもネガティブが好きだ。古代の偉大な文学作品も悲劇が多い。本格的な物語は悲劇が多く、悲劇に比べれば喜劇は軽く扱われる。ハッピーエンドが大好きという文明は、子供な文明だろう。すべてハッピーエンドで「なければならない」と要請されるような文明は、全力で走り続けていないと死んでしまう仕組みがあり、欺瞞の上に立つ巨大建築で、見抜かれたら直ちに瓦解してしまう恐怖を皆が共有しているような、不健全な文明だと思う。万葉集は特権階級のために特権階級が編輯したものだが、貧窮問答歌とか、今の言い方で言えばネガティブな作品満載である。彼らが好きで集めたのであり、ああいう話が好きだったのだ。そもそも古代に、今のようなネガティブとポジティブの区別があったのだろうか。「悲」という漢字は、両翼が引き裂かれるような心という意味であり、切なる感情の動きを指し、必ずしも「悲しい」という意味に限らない。愛の意味もある。慈悲、悲母観音、悲田院、など。日本語の「かなし」も両方の意味があった。古代の人は、正負の区別をせず評価を抜きに、強い感情の動きを強い感情の動きとして捉えていたのだろう。だから、我々がポジティブだネガティブだと言っている区別自体が、どこの馬の骨とも知れないぽっと出の教条だと言える。

3.存在すること

正があれば必ず負がある、この世は正負の対で成り立っている、ということはできるが、では正と負は対等平等なのか、というと疑問である。この世はとにかく存在しているとされるのであり、存在の世界である。存在するということはそれ自体「正」、ポジティブなのではないか。ポジティブだネガティブだというが、根源的なポジティブの土俵の上での相対的なポジやネガにすぎない。ネガティブもまた存在を主張する以上、ポジティブなのだ。

生きている人は、死をネガティブと考える。生命が減っていってゼロになると死になると考えるが、これは論理的だろうか。常識的な理屈で素直に考えれば、死は死んだ者にとって無である。電源を落としても大丈夫な記憶装置は、生身の人間にはない。電源を落とした途端、脳は腐り始める。記憶の世界にある事柄、つまり心は、遡及的に消失する。感情と意思の主体たる「わたし」は、生まれなかったとまったく同じ「無」に帰する。(大槻義彦氏の「人は三度死ぬ」は非科学的)。仮にそれ以上に何かあるとしても、それは人間の想像を超えた世界のことであり、語るべきでない。人間も電算機と変わらない。電算機も、最近の噂では、感情や意思を持ちうるという。人間が一種の電算機ロボットであっても不都合はない。

要するに、ネガティブも有の世界の属し、ありがたいものである。ネガティブを愛する人間は常におり、趣味の問題だ。しかし、我々は根本的にはポジティブな、存在する世界に属していると考えられる。

4. 私の技法

ポジティブシンキングも「引き寄せの法則」も、実生活で良い思いをしたい、現世利益を得たいという要求に答えて唱えられ支持を集めたものである。だから、私もそれに代わる処世法を一応提示しておこうと思う。

まず、健康の価値。これに気づいていない人が、特に男性に非常に多いが、幸福でいたいなら一番に考えなければならないことだ。物質は意識を規定すると考えておいたほうが絶対に無難である。物質の第一はお金でなく、自分の身体である。

健康を保つ方法を考えるときも、オカルト業者のように「意識で健康になれる」とか思わないことが重要。それはただの怠慢である。仮に、心がけで健康になれるとしても、心はコロコロと変わるからココロというのである。それに比べれば肉体の変化は遅い。だからこそ、肉体に直接働きかけるのが堅実である。物質が意識を規定する、と考えておくのが絶対に無難である。

具体的な方法は人それぞれだが、できるだけ長い時間をかけて自分の身体と健康を考えること。身体にはそれだけの価値がある。カネのことを考える暇があったら身体のことを考えたほうが良い。「スピリチュアル」の先生方も半病人のような人が多い。身体をおろそかにして意識とか変なことばかり考えているからではないか?

私のおすすめは、やはりハタヨガである。なるべく神秘主義を削ぎ落としてやる。アクロバットに走らない。特に重点的にやるとしたら、パスチモタナ・アーサナ https://youtu.be/ZhmVIsd-CtM とアルダ・マッチェンドラ http://ift.tt/1gKp0rD およびウディアナバンダ https://youtu.be/vZLn6ExV1Ao を毎日少しずつ続けること。未経験の人は、数ヶ月で世界の見え方が変わってくると思う。

食べ物についてはあまり苦にしないほうが良いと思うが、私はなるべく「ヒマワリの種」を食べるようにしている。

一応、「心がけ」についても、私のやっている範囲で述べておきたい。

まず一番大事なのは「気をつけていること」。健康を損なう原因は病気だけでなく、事故が大きい。この意味でも、「気をつけること」はいくら強調しても足りない。上座仏教のヴィパッサナのような小難しいことは一切考えず、常識的に、いつも気をつけていることが大事。日本では、バスルームで転倒しても大怪我をしない。家の中も町も周到に安全にできている。一方、途上国のローカルな生活では、日本のような不注意な振る舞いをしていたら、部屋の中でも町でもケガだらけになる。尖った出っ張りはあちこちにあるし、歩道には穴もある。足元に気をつけて歩いていると、顔の辺りに鉄の棒が突き出していることもある。このことが示しているのは、日本の生活にどっぷり浸かっている人は、外の世界をほとんど見ていないかもしれないということである。ほとんど見ていなくても普通に過ごせてしまうからだ。客観的な世界をほとんど見ないで妄想世界だけで生きていることが多いのではないか?そういうことも考えて見る価値がある。

もう一つ、最後に。ちょっと抹香臭くなるが、祈ることが有効である。特に「敵のために祈る」ことは現実に有効である。心にもないこと、で良い。形だけで良し。祈りは鉾になり盾になってあなたの心を敵から守ってくれると思う。一回だけ試してみることをおすすめする。あなたの神に、(神でもなんでも良いが)、「☓☓(=敵)が幸せでありますように」とか祈ってみる。効果はすぐにわかると思う。口だけで良いのである。心にもないことで十分で、呪いではなく祈りであれば良い。

ネガティブとポジティブ1

ネガティブとポジティブ1

オカルトがらみの自己啓発などで言われる「ポジティブ」と「ネガティブ」について、もう少し考えてみたい。

旧来の「ポジティブ思考」説は、ポジティブが善でトクであり、ネガティブはとにかくダメだ、という単純な対立図式だった。

しかし最近のオカルト系自己啓発は、さすがにそれほど安直ではなくなり、この世界はポジティブとネガティブで成り立っており、ポジティブがあれば必ずネガティブがある。大事なのは両面に気づいていることで、中庸である、というふうに説く人が多い。ポジティブ思考を必死にやってみたが良いことが引き寄せられないという声を放置できなくなっているのだろう。

しかし、中庸が大事だということは、昔から坊さんが説教していたはずであり、それが何になるの?俺は悟りを開きたいなんてまったく思ってなくて、ただカネと可愛い彼女が欲しいだけ、私はカッコよくてお金持ちの彼氏が欲しいだけ、という声には、これではうまく答えられない。そこで「ニュートラルな見方ができるようになると、『良い引き寄せ』が始まるんです」などと自分の体験談を交えてこじつけることになる。説く人は(少なくとも触れ込みでは)勝ち組ばかりでありスゴイ成功者のお仲間でもあるので、実体験と実績に逃げ込むのが決め手になる。

それでも、ポジティブとネガティブの両面を見ることが一番大事である、ニュートラルな視点が大事だ、と言う同じ口で、「ニュースは見ないほうが良い」(ポジティブなことはニュースにはならず、もっぱらネガティブな事柄がニュースになるから)とか、「ハッピーエンドの映画を毎日観ると良い」(良い引き寄せがある=運気が上がる)とか説いていたりする。そんな小手先のことで長期的に現世利益になるかどうかも疑問だが、この先生方は、ポジティブとかネガティブということをどこまで本気で考えているのかも疑問になる。いつでも実体験と実績に逃げ込めばよく、聞き手は理ではなく実利を求める人ばかりなので、なんでもありになっているようである。オカルト系自己啓発の先生方の特徴は、みなたいへん話がうまいこと。滑らかな舌で快く話しかけてくれる。苫米地英人氏よりもずっと滑らかに話す。その話の技術だけでも彼らは一財産作ることができる人たちだろう。彼らの話を聞く人で、彼らのように巧みに人前で話せる人はほとんどいないのではないか?先生と生徒との違いはまずそこにある。

(つづく。次回は、「ネガティブ」はステキなのではないか、ということについて書こうと思います。さらに、存在しているということの意味についても少し考えてみます。また、私自身がやっている簡単な技法を紹介します。もちろん金持ちにはなれませんが、まっとうな社会から切り離されてもそこそこ健康に楽しく生きていくための技法です)