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沖縄、高江に進行中の事例

沖縄には行ったこともなく、私はどんな所なのかも想像がつきません。東南アジア各国を旅行しても、国や地域によって風土も人間も違い、「南国だから」「亜熱帯だから」どうとは言えない。かつては独立国だった土地、戦後長くアメリカ領で、日本に復帰した県という知識はあっても、現実に内地とどう違うのか、どう同じなのかも、見当がつきません。

「無関心」と言えるでしょう。日本国内の米軍基地の7割が沖縄にある、と聞かされても、米軍基地を望んだのは私ではないし、米軍の駐留を私が希望しているわけではない、と思えば、「だから?」としか感じない。そうハッキリとは言わないとしても、真に感じ入るということはない。

(日本では見かけませんが)外国ではときどき道端にゴミ箱があります。道端のゴミ箱の中身が今どんなふうになっているかに関心がないように、沖縄で起きていることにも関心がない。このキレイな無関心は、沖縄に自分と同じ人間が暮らしているということを見落としたところから出てくる無関心です。その意味で、「差別」かもしれない。

内地のメディアでは、ほとんど報道されていないそうです。

https://twitter.com/kininaru2014111/status/756456660453855232 

http://blog.goo.ne.jp/chuy/e/cba6daef778f57ba21d19725b6b53bd5

フェアでないという感覚

フェアでない、という感覚。

外来語を使わなければならないということは、もともと日本にはなかったのだろう。

公平でない、ということか。公が余分だと思う。

フェアであることは、平等であることを意味しないが、平等でないと感じるときにはフェアでないとも感じているだろう。

フェアでないという感覚は、直接自分の利害に関係ないところにも特徴がある。自分が得をしている場合でも、この競争はフェアでないと感じることがあるはずだ。

平等について言えば、そもそも平等は必要かという問題があり、答えは出ない。必要だと仮定して、平等が可能かといえば、実質的な平等は不可能だというしかない。だから、平等を追求する運動は必ず挫折する。

それを見て、ある人々は、そもそも平等は不可能であるだけでなく、不必要なものであり、無価値なものだと断定し「勝利宣言」するようである。

しかし、そのような人々も「形式的な機会の平等」は保障されなければならず、それで足りるという。

この考え方は奇異ではないか?「実質的な平等」が原理的に不可能なもので不必要なものであるなら、言葉だけの「形式的な平等」はなおさら不必要でなければならない。そのようなまやかしは退けるべきであり、すべての平等理念を否定するのが筋である。平等理念を追求する以上、最大限の平等を追求すべきであり、それは「機会」に限定するとしても少なくとも「実質的」なものであるべきなのは自然な理といえる。

私達の社会に、形式的なものであれ実質的なものであれ、あるいは機会であれ結果であれ、大きな不平等が存在している時、私達は仮に自分がそれにより利益を得ていたとしても、フェアでないと感じるのではないか。そこにはすっきりしないものがあり、不和と衝突、場合によっては暴発の種がある。利益を得ている者にも不安がある。

この矛盾を押し込める一つの方法は、一見中立的な、しかも両当事者を遥かに凌ぐ実力を持った意思主体を導入することである。

これが国家の正体だといえる。解消し難い不和のないところに国家は生まれない。そして国家は必ずできる限り中立的な装いと、不和当事者双方を遥かに凌ぐ実力を持たなければならない。

国家と言わず、「公」(おおやけ)は、不平等ないし不公平を維持するために存在する。

「敗戦」の結果を受け入れなければならない。

第2次世界大戦の「結果」に変更を加えようとする試みは、一部の日本人を除く世界のすべての人々にとって、決して受け入れられないものである。第2次世界大戦の結果とは、日本については「敗戦」のことである。

「敗戦」とは何か。日本軍が勝っていたか負けていたかということではない。敗戦とは「無条件降伏」という国家意思、すなわち主権者であった天皇の意思の発動の結果を言う。無条件降伏とは、敵すなわち連合国(米英欄仏中ソ等)が白といえば白、黒といえば黒、と言うことである。戦勝国が日本語使用を禁止するといえばそれに従うべきであった。天皇は狡く立ち回り、マッカーサーに取り入り沖縄を差し出し命拾いしたが、本来ならば旧皇族を含む天皇一族全員が絞首刑にされてもよかったのである。

戦争に関する「歴史認識」も、「無条件に」戦勝国に委ねたのである。これも主権者天皇の意思であり所謂「ご聖断」である。歴史認識も「敗戦の結果」なのであり「第2次世界大戦の結果」である。

南京大虐殺は勿論、日本軍による従軍慰安婦強制連行の事実も、第2次世界大戦の結果として確定しており、国際社会(戦勝国とその承継国および賛同国)が等しく認めているところである。BBCなども、日本軍による従軍慰安婦強制連行は当然あったことを前提とする報道を続けており、ブレはない。これらの事実を否定しようとすることは、国際社会のすべての人々を敵に回すことを意味する。

「敗戦」は、無条件降伏という法律行為の効果であり、事実ではなく規範に属するのだ。悔しかったら昭和天皇を恨めということである。

そんなに悪い人は見ない

ベトナム人については色々言う人がいるが、旅行者として接する限り、悪い印象はもたない。すぐに田舎に出たからかも知れないが、お金についても正直な人が多い印象である。ぼる人には会っていない。

東南アジア人にありがちな(特にタイ人によくある)「ネットリした」様子も見ないし「しかめっ面」も見ない。媚びることもなければ、頑なに攻撃的になることもない。つまりベトナム人は「頭が良い」のだろう。バランス感覚が良いのだと思う。状況を冷静に見て、感情のバランスを取ることができるのだろう。

また、東南アジアの原住系の人としては非常に珍しいことに、ベトナム人は地図を読める人が多い。日本語の地図でも、見せると何とか把握しようとしてくれる。これは驚くべきことだ。

ベトナム人は尊敬に値する。アメリカとの「本土決戦」を戦い抜いたのはベトナム人だけである。日本人のような狡い腰抜けではない。一瞬の我慢で自殺攻撃をしたからといって、少しも勇敢だとは言えない。本土において、大虐殺、苦痛を目的とした非人道的兵器による非戦闘員虐殺(燐爆弾、マグネシウム爆弾、ナパーム弾、枯れ葉剤)、強姦虐殺等の攻撃を延々と受けながら、いつ果てるともわからない戦いを戦い抜いた民族である。

日本も、もし本土決戦を敢行し、10年間戦い抜いていたら、たとえ人口が3分の1になったとしても、尊敬に値し誇るに値する国になっていただろう。もちろん天皇一族は真っ先に白旗を上げて亡命しただろう。つまり、天皇の玉音放送ひとつであっという間に転向できてしまったという事実が、日本人の戦いが仮に「自衛戦争」としても本物でなかった証拠である。

イスラム国で戦うドイツ人「イスラム国はヨーロッパを征服する」

キリスト教徒やユダヤ教徒よりシーア派を敵視してるようだ。

また、イスラム国の「法」とされるものについても説明していて、それによるとキリスト教徒やユダヤ教徒は「保護税」を払うか、イスラム教スンニ派に改宗しなければならないが、シーア派のイスラム教徒は、(スンニ派に)改宗しなければ殺されるという。

イスラム国の拡大計画については、「いつの日か(イスラム国は)ヨーロッパを征服するだろう。単に征服『したい』のではない。征服『する』のだ」と語っている。

via イスラム国で戦うドイツ人「イスラム国はヨーロッパを征服する」.

イスラム国 テロリストが国家をつくる時

イスラム国の正体 (朝日新書)