Category Archives: 人種

白人が優れていることは認めなければならない

https://twitter.com/RepUruma/status/801662297181540352

「白人」というより「西ユーラシア人」というのが適切でしょうが、エジプト文明に始まり、地中海の文明、メソポタミア文明、ギリシャ、ローマ、ペルシャの文明、インド文明、イスラム文明など、人類の主要な文明を作ってきたのはみな「西ユーラシア人」です。黄河文明も漢民族の文明ではなかったと言われています。いわゆる「コーカソイド」つまり西ユーラシア人が作った文明です。クメール文字(タイ文字などの原形)もインド由来の文字で、もとをたどればローマ字と同じくフェニキア文字が源流です。だから、いわゆる白人は、日本人などよりは知的に優れており、高度な文明の歴史の担い手なのです。

このようなことをツイッターに書いたら、たちまち「白人至上主義」「人種差別主義者」などとレッテルを貼る人が出てきましたが、まったく違います。その程度の区別もつけられない人が多いから、日本人は知能が低いと言われるのです。

例えば、知的障害者は知能が低い、と言うのは事実の指摘であって「差別主義」ではありません。彼は知的障害者だ、というのも事実です。頭の良い人も悪い人も、教養のある人もない人も、さらに、道徳的に高い人も低い人も、人間としての価値・資格は同じであって、公の場所では出来る限り平等に扱われるべきであり、不当な差別扱いをしてはならない、というのが「平等」の理念です。

パブリックな場所で、人を日本人か白人かによって差別扱いしてはならないが、白人が日本人より優れているのは事実です。この2つの命題は互いに矛盾しません。特に男性に関しては白人が圧倒的に優れているので、日本人女性が白人男性と恋愛や結婚をしたいと願うのは自然なことであり、まったく「差別」ではありません。

これだけのことすら理解できず、強烈な白人コンプレックスを露わにし、白人男性と交際する日本人女性を執拗に非難し、自分は正しいことをしていると思い込んでいる日本人男性がいまだに少なくないようですが、ひとことで言えば「恥」です。それは「人種差別反対」とは無関係な動物的情念の表現であり、妬み嫉みに理屈をつけただけのものです。

白人は日本人より優れており、見た目も美しい。また、白人の言語も、概ね日本語より優れています。それにもかかわらず、法的にはもちろん、ホテルやレストランなどパブリックな場所では、白人も日本人も平等な扱いを受けるべきである。これが「人種差別反対」の意味です。

とにかく、日本女性が白人男性に惹かれるのは自然なことであり、「差別」ではありません。

実際のところ白人が有利

この世界で生きていくために大事なことは、健康でお金があり見た目が良いことである。健康が一番だが、お金(身分・門地を含む)と見た目という観点から、必然的に最も恵まれるのは、白人に生まれた者だ。英語圏白人ならなお良いが、とりあえず白人なら良い。例えばタイでは、白人ならドイツ人でも英語教師に簡単になれる(日本人だったら相当英語ができても狭き門である)。そして生計を立てながら就労ビザでほぼ無限に滞在することができる。タイに限らず、英語がある程度できる白人ならそのような形で世界中好きなところに滞在しながら、日本女など馬鹿なアジア女を性奴隷乃至生殖奴隷にしつつ、好きなように生きていけるのだ。素晴らしいことではないか。最下層に近くても、白人にはこれだけのチャンスがある。今の生命科学では、これから白人に生まれ変わることはできないが、自分の子孫を英語白人に近い者にすることは可能だ。不幸の再生産はもう沢山だろう。女なら、行きずりで良いから白人の子を生むこと。そして徹底的に英語で育てる努力をすること。その子供がなんとか白人と結婚できれば、孫の代にはほぼ、この世界の貴族の仲間入りができると思う。

チェトリ、バウンはやっぱり最悪だ。

ネパールに定住している日本女性は、たいていチェトリかバウンと結婚している。ネパールに男漁りに来る日本女の目的もたいていこれら所謂アーリア系カーストの男と遊ぶことである。

今回ネパール東部丘陵の町バサンタプルに約2か月滞在し、やはりチェトリ、バウン(特にチェトリ)は最悪のおそらく遺伝的(相伝的)な差別主義者であると実感した。以前、アーリア系の方がマシだと書いたこともある。そういうことを感じることも全くないではないが、たちの悪い差別意識はやはりアーリア系が持ち込んだものだと改めて思う。

私はこの町には何度も来てそのたびに長期滞在しており、顔なじみも多い。大抵の人が一人だけいる外国人は日本人だと知っている。だから、たいていの人は私を見かけても(内心どう感じているかは知らないが)特別な反応はしない。ところが、一部のアーリア系は別である。

ヨーロッパには長く滞在したことがないので嫌な思いをした経験もないが、イランやアルメニアでは、しばしば子供に「チンチャンチョン」をやられた。これらの土地では東アジア系自体が珍しいのだろう。

バサンタプルで、私が通りかかるたびに「ヘーイ、ジャパニーズ!ナンタラカンタラ(侮辱の言葉だと思われる)、ハッハッハー!」としつこくやってくる少年たちは、チェトリかバウンか知らないが(無教養ぶりからしておそらくチェトリ)、かなり純度の高い(白人風の)アーリア系のみのグループである。明らかに人種的またはカースト的な優越意識をもって日本人を見下し、笑いものにしていると感じる。完全に無視しているが、やめようとしない。とにかくしつこい。

親や親族がそういう教育をしているから、こういう嫌がらせををしつこくやるのである。「ジャパニーズ、ヒソヒソ」というのはどこでもあるが、モンゴロイド系カーストにここまでしつこくやられることはない。

一度その中の一人を(どいつでもいいが)不意打ちして袋叩きにして半殺しにしてカタワにしてやろうかとも思うが、警察はチェトリが多いし、ネパール人全体を敵に回しかねないので躊躇している。

「白人効果」の補足

先日の記事で、『私が日本人で彼女はスペイン人とわかっているのに、「国は同じなのか」という錯乱した質問を真顔でする者もいた。』と書きましたが、この人は別に錯乱していたわけではなく、正気でこの質問をしたのかもしれません。

つまり、彼女が「スペイン人」であるということは、スペイン人というカーストの人、ということであり、わたしが「日本人」であるということは日本人というカーストに属する人であって、カーストは違っても国(デス)は同じかもしれない、と解釈したのかもしれないからです。

ネパールは多民族国家で、様々なカースト(所謂人種、民族、種族、部族、一族)が混住している国です。バサンタプルのような山の中の小さな町でも、白人(西洋人)そっくりな人も見かけるし、日本人そっくりの人や東南アジア系に見える人、インド独特と思われる顔立ちも見ます。さまざまな遺伝的特徴をもった人々が同じネパール人としてネパール語を話して共存し混住しています。

白人そっくりに見える人も、目つきや仕草、雰囲気や立ち居振る舞いなどで、すぐにネパール人とわかることが多いです。

ただし、中には、本当に西洋人にしか見えない人もいます。そういう人に限って、生粋の田舎者であることが多いようです。ネパールの都市文化にもインド文明にも晒されていないため、ネパール人共通の目つき、仕草、立ち居振る舞いが身についていないからのように思います。先日、Yakホテルに卵を卸しに来ていた人は、どうみても西洋人にしか見えなかったので、在住の白人かと思って英語で話しかけてみましたが、一言も通じませんでした。ネパール語は完全なネイティブのようでした。近在の田舎で鶏を飼っているチェトリなのか、鶏卵を商っているインド人なのか、とにかく、西洋人でないことは確かでした。

ネパール人には目の黒くない人も多く、所謂モンゴロイド系カーストにも日本に連れてくれば「ガイジンみたい」と言われそうな人も多くいます。

このようにネパールは、田舎町でもいろんな遺伝的特徴をもった人々が(互いに毛嫌いしながらも)混住している国なので、白人の「顔立ち」に対する違和感、憧れ、コンプレックスは、日本ほどはないと思われます。白人ツーリストが来た時に大騒ぎしたのは、主として服装や仕草、立ち居振る舞い、行動様式が現地人と大きく違うからだと思います。(女の一人旅も含め)。

なお、ネパールの田舎に西洋人そっくりの人がいるのは、イランに目の青い人がいるのと同じような理由であって、日本や東南アジアにいる最近の白人混血の人とは違います。

「ボテ」という言葉について

ネパールで言う「ボテ」についてです。

以前、カトマンドゥのバウンから「お前ら日本人はボテだ」と言われたことがあり、一般に「ボテ」は、いわゆる「モンゴリアン」カースト全般を指していう言葉だと思っていました。(元来の意味は「チベット人」のことのようです)。

ところが今日複数の教育のあるバウンから、「ボテ」というのは(「モンゴリアン」カースト)の中でもタマン族(ラマ姓を自称する場合が多い)に限って使う言葉だと聞きました。グルン、タカリ、マガル、ライ、リンブー等々は「ボテ」とはいわないのだということです。

本来の意味の「ヒマラヤに住むチベット人」という意味では、「ボテ」は少なくともネパールでは一般には使われないようです。ほとんどがシェルパ族なので「シェルパ」です。シェルパのなかにも亡命系のシェルパと昔からヒマラヤの南側に住んでいるシェルパ(ソルクーンブ)のシェルパがあり、言葉もアイデンティティも違うようです。

ネパール人はカースト意識もまだ強いですが、ネパール人同族意識もやはり強いようで、少なくとも教育のあるバウンは、モンゴロイド系の少数民族も同族として考えているようです。

なお、ネパール人が今でも使う「モンゴリアン」、「アーリアン」という言葉は、おそらく人種主義的な白人が吹き込んだものだと思われます。支配層のバウンやチェトリを喜ばせるために、あるいは、カースト差別を前提として支配層のバウンやチェトリが白人を喜ばせるために、互いに使いあって(ネパールの)英語に定着しているものだと思います。

今でも世界中の白人が使っている「コーケイジアン」(コーカソイド)という言葉にも根拠はなく、むしろ旧約聖書の解釈に基づく人種主義的な概念です。(神に選ばれたノアの一族を乗せた箱舟は洪水のあとコーカサスのアララト山に漂着した。そこからセム、ハム、ヤフェトの民族が生まれ、白人はヤフェトの子孫だとされる)。

「モンゴリアン」「モンゴロイド」などという概念はますます根拠のないものです。大スンダ(今のマレーシアやインドネシアを含む地域でかつて大陸があったといわれる)の先住民や縄文人がなぜ「古モンゴロイド」などと呼ばれなければならないのか。モンゴルとは何の関係もありません。

現在の人類学説では、人類は一種であり、ユーラシア大陸については、「西ユーラシア人」と「東ユーラシア人」に分けているようです。しかし、目も青く金髪で肌も白いタタール人は「モンゴロイド」なのか、とか、中央アジアや西アジアでは血統的にはペルシャ系でトルコ語化した諸民族が多数いるようですが、彼らは「モンゴロイド」なのか「コーカソイド」なのか、とか、あいまいなところはいくらでもあります。そもそも「人類学」という学問が、白人の人種的な優越性を証明するために作られたものなので、自然人類学自体がいかがわしい学問だと思ったほうが良いと思います。「モンゴリアン」とか「コーケイジアン」という言葉を不用意に使う者を見たら、無教養な人間とみなしてよいです。

 南アジア社会を学ぶ人のために

Caucasian race – Wikipedia, the free encyclopedia

人種概念の普遍性を問う―西洋的パラダイムを超えて

人種の表象と社会的リアリティ

英語のウィキペディアには、「コーカソイド」という呼称が旧約聖書の「ノアの方舟」に由来する、それ自体人種主義的な概念である(方舟がコーカサスのアララト山に漂着したこと=つまり神に選ばれた人間の子孫)という点に触れていない。日本語版ウィキペディアの説明の方が良い。英語ではCaucasianという言葉が実際に頻繁に使わているからかもしれないが。司法関係で使われるとか。

The term “Caucasian race” was coined by the German philosopher Christoph Meiners in his The Outline of History of Mankind (1785). Meiners’ term was given wider circulation in the 1790s by Johann Friedrich Blumenbach, a German professor of medicine and member of the British Royal Society, who is considered one of the founders of the discipline of anthropology.[7]

Meiners’ treatise was widely read in the German intellectual circles of its day, despite muted criticism of its scholarship. Meiners proposed a taxonomy of human beings which involved only two races (Rassen): Caucasians and Mongolians. He considered Caucasians to be more physically attractive than Mongolians, notably because they had paler skin; Caucasians were also more sensitive and more morally virtuous than Mongolians. Later he would make similar distinctions within the Caucasian group, concluding that the Germans were the most attractive and virtuous people on earth. The name “Caucasian” derived from the Southern Caucasus region (or what is now the countries of Armenia, Azerbaijan and Georgia), because he considered the people of this region to be the archetype for the grouping.

Meiners’ classification was not grounded on any scientific criteria. It was Blumenbach who gave it scientific credibility and a wider audience, by grounding it in the new quantitative method of craniology. Blumenbach did not credit Meiners with his taxonomy, however, claiming to have developed it himself — although his justification clearly points to Meiners’ aesthetic viewpoint:

Caucasian variety—I have taken the name of this variety from Mount Caucasus, both because its neighborhood, and especially its southern slope, produces the most beautiful race of men, I mean the Georgian; and because all physiological reasons converge to this, that in that region, if anywhere, it seems we ought with the greatest probability to place the autochthones (original members) of mankind.[8]

via Caucasian race – Wikipedia, the free encyclopedia.

コーカソイド – Wikipedia

コーカソイドとはヨーロッパ人がキリスト教的価値観に基づいて自己を定義するために創出された概念である。

via コーカソイド – Wikipedia.

人類学が成立したヨーロッパはキリスト教圏であり、ユダヤキリスト教に由来する価値観が重んじられていた。ヨーロッパのキリスト教徒にとって、『創世記』のノアの方舟アララト山にたどり着いたノアの息子たちは現在の人類の始祖であった。人類学の父とされるブルーメンバッハをはじめとするヨーロッパ人学者たちは、アララト山のあるコーカサスに関心を抱いていた[2]また、『旧約聖書』の創世記1〜6章では、白い色は・昼・人・善を表し、黒い色は・夜・獣・悪を表していた。文化人類学者の竹沢泰子は、ヨーロッパ人が自分たちを美しい白い肌の人とみなしたのは、白い色に対するこのような価値観に基づいているのではないかと指摘している[2]

人種の表象と社会的リアリティ

人種概念の普遍性を問う―西洋的パラダイムを超えて