Category Archives: アーリア人

チェトリ、バウンはやっぱり最悪だ。

ネパールに定住している日本女性は、たいていチェトリかバウンと結婚している。ネパールに男漁りに来る日本女の目的もたいていこれら所謂アーリア系カーストの男と遊ぶことである。

今回ネパール東部丘陵の町バサンタプルに約2か月滞在し、やはりチェトリ、バウン(特にチェトリ)は最悪のおそらく遺伝的(相伝的)な差別主義者であると実感した。以前、アーリア系の方がマシだと書いたこともある。そういうことを感じることも全くないではないが、たちの悪い差別意識はやはりアーリア系が持ち込んだものだと改めて思う。

私はこの町には何度も来てそのたびに長期滞在しており、顔なじみも多い。大抵の人が一人だけいる外国人は日本人だと知っている。だから、たいていの人は私を見かけても(内心どう感じているかは知らないが)特別な反応はしない。ところが、一部のアーリア系は別である。

ヨーロッパには長く滞在したことがないので嫌な思いをした経験もないが、イランやアルメニアでは、しばしば子供に「チンチャンチョン」をやられた。これらの土地では東アジア系自体が珍しいのだろう。

バサンタプルで、私が通りかかるたびに「ヘーイ、ジャパニーズ!ナンタラカンタラ(侮辱の言葉だと思われる)、ハッハッハー!」としつこくやってくる少年たちは、チェトリかバウンか知らないが(無教養ぶりからしておそらくチェトリ)、かなり純度の高い(白人風の)アーリア系のみのグループである。明らかに人種的またはカースト的な優越意識をもって日本人を見下し、笑いものにしていると感じる。完全に無視しているが、やめようとしない。とにかくしつこい。

親や親族がそういう教育をしているから、こういう嫌がらせををしつこくやるのである。「ジャパニーズ、ヒソヒソ」というのはどこでもあるが、モンゴロイド系カーストにここまでしつこくやられることはない。

一度その中の一人を(どいつでもいいが)不意打ちして袋叩きにして半殺しにしてカタワにしてやろうかとも思うが、警察はチェトリが多いし、ネパール人全体を敵に回しかねないので躊躇している。

「ボテ」という言葉について

ネパールで言う「ボテ」についてです。

以前、カトマンドゥのバウンから「お前ら日本人はボテだ」と言われたことがあり、一般に「ボテ」は、いわゆる「モンゴリアン」カースト全般を指していう言葉だと思っていました。(元来の意味は「チベット人」のことのようです)。

ところが今日複数の教育のあるバウンから、「ボテ」というのは(「モンゴリアン」カースト)の中でもタマン族(ラマ姓を自称する場合が多い)に限って使う言葉だと聞きました。グルン、タカリ、マガル、ライ、リンブー等々は「ボテ」とはいわないのだということです。

本来の意味の「ヒマラヤに住むチベット人」という意味では、「ボテ」は少なくともネパールでは一般には使われないようです。ほとんどがシェルパ族なので「シェルパ」です。シェルパのなかにも亡命系のシェルパと昔からヒマラヤの南側に住んでいるシェルパ(ソルクーンブ)のシェルパがあり、言葉もアイデンティティも違うようです。

ネパール人はカースト意識もまだ強いですが、ネパール人同族意識もやはり強いようで、少なくとも教育のあるバウンは、モンゴロイド系の少数民族も同族として考えているようです。

なお、ネパール人が今でも使う「モンゴリアン」、「アーリアン」という言葉は、おそらく人種主義的な白人が吹き込んだものだと思われます。支配層のバウンやチェトリを喜ばせるために、あるいは、カースト差別を前提として支配層のバウンやチェトリが白人を喜ばせるために、互いに使いあって(ネパールの)英語に定着しているものだと思います。

今でも世界中の白人が使っている「コーケイジアン」(コーカソイド)という言葉にも根拠はなく、むしろ旧約聖書の解釈に基づく人種主義的な概念です。(神に選ばれたノアの一族を乗せた箱舟は洪水のあとコーカサスのアララト山に漂着した。そこからセム、ハム、ヤフェトの民族が生まれ、白人はヤフェトの子孫だとされる)。

「モンゴリアン」「モンゴロイド」などという概念はますます根拠のないものです。大スンダ(今のマレーシアやインドネシアを含む地域でかつて大陸があったといわれる)の先住民や縄文人がなぜ「古モンゴロイド」などと呼ばれなければならないのか。モンゴルとは何の関係もありません。

現在の人類学説では、人類は一種であり、ユーラシア大陸については、「西ユーラシア人」と「東ユーラシア人」に分けているようです。しかし、目も青く金髪で肌も白いタタール人は「モンゴロイド」なのか、とか、中央アジアや西アジアでは血統的にはペルシャ系でトルコ語化した諸民族が多数いるようですが、彼らは「モンゴロイド」なのか「コーカソイド」なのか、とか、あいまいなところはいくらでもあります。そもそも「人類学」という学問が、白人の人種的な優越性を証明するために作られたものなので、自然人類学自体がいかがわしい学問だと思ったほうが良いと思います。「モンゴリアン」とか「コーケイジアン」という言葉を不用意に使う者を見たら、無教養な人間とみなしてよいです。

 南アジア社会を学ぶ人のために

トマトジュースは身体に良いらしい


伊藤園 熟トマト 190g×20本  「熟トマト190g*20本」は、イタリア産トマトを100%使用した野菜ジュースです。真っ赤に完熟して自然の栄養素を豊富に含んだものを収穫・搾汁しています。甘さ・カロリーを控え、食塩無添加であっさりした飲み口に仕上げています。

微量の放射能は人体に無害であり、年間100mSv以下の被曝で病気になることはありません。

LNT(linear no-threshold)仮説については、近藤宗平氏や高田純氏など広島や長崎の被爆者を調査した専門家が一致して「実証的な証拠がない」と批判しており、米政府は2005年に発表したBEIR Ⅶ報告書でLNT仮説に疑問があることを認め、同じ年に発表されたフランス政府の報告書はLNT仮説を否定し、ICRPの基準を見直すべきだとしています。
http://agora-web.jp/archives/1381861.html

日本の反原発デモに参加した白人が逮捕されたというので、日本の反原発屋たちが怒り狂い、大騒ぎをしているようです。心身ともなる白人植民地・日本ならではの光景です。

彼ら反原発屋・日本進歩主義者どもの水準が水戸黄門並だ、ということがまた暴露されました。印籠を出す場面で出してきたのが白人だったということであり、反原発屋の印籠は欧米様だったわけです。彼らの精神年齢は小学生並(または水戸黄門愛好家の老婆並)です。

そもそも、白人が日本でデモをすること自体が不届きでしょう。黄色い日本人が欧米でデモなどやったらどういうことになるか、考えてみるべきです。相互主義でなければなりません。

ツイッターでごくまれに反原発派の人と接触することがありますが、彼らの多くは知能も本当に小学生並だと思います。

(原発は)「心がない」とか平気で連発する者、「原発は戦争のために作られたから良くない」などという人(「インターネットも・・・」と言ったら沈黙)、とか、そんな人ばかり。あとは例によって、夫が白人で・・・、海外在住で・・・・、とか。

ヨーロッパ人のなかでも特にドイツ人が、放射能について異常なまでの潔癖性を見せるようですが、それはちょうど彼らが「アーリア人の純血性」を追求してユダヤ人を根絶やしにしようとしたことに似ています。いずれも科学的根拠はなく(アーリア人の優秀性や人種主義的優生学に「科学的根拠」がある程度の科学的根拠しかなく)、彼らの異常な性癖に過ぎません。この人の言うとおりです。⇒
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/e/66f14d6c6ced7527ea9eca06f6567742

とはいえ、この騒ぎを機会に、自らを省み、食生活や生活習慣を改めてみることは悪いことではありません。

タバコを吸っている人が微量の放射能の害を語る資格はありません。彼らがその場でタバコを吸っていなくても、彼らの吐く息はすでに汚染されており、小児には有害です。彼らは体中から発がん性物質を出しているのであり、彼らと住んでいるだけで子供の健康被害は生じているのです。

また、食物をたくさん摂れば肥満になるだけでなく有害物質もその分多く摂ることになります。有害物質があってもなくても、少食が健康的です。

日本人は国産食品にこだわり外国産食品・特にアジア産食品を蔑視し、排除してきましたが、いまや放射能騒ぎで日本産食品は危険だといわなければならない立場になり、外国からもそういわれています。これはバチがあたったということでしょう。

ここに紹介するのは、キャンベルV8という野菜ジュースです。トマトジュース主体のミックスジュースです。ペクチンなどと同様、放射能被曝に有効だそうです。本当かどうかはわかりませんが、スリーマイル島事故の時に愛飲されたとか。原産国は米国と明示されているので米国の野菜を使っているのでしょう。


キャンベル V8 ベジタブルジュース 340ml×24本 (VEGETABLE JUICE)野菜ジュース

そのほかに乳酸菌が良いとかスピルリナだとか、いろいろ言われているので、不安な人は試してみると良いと思います。

いずれにしても、微量の放射能は人体に無害です。

モンゴロイド系

まず、このブログでもたくさん使っている「モンゴロイド系」「アーリア系」という言葉について少し弁明しておきたい。

人類を「コーカソイド」、「モンゴロイド」、「ネグロイド」、などと分類する仕方自体が、今日の科学的な知見からは誤りであるとされている。人類は一種目である、というのが学問的には正しいということである。「コーカソイド」という言葉も、旧約聖書のノアの箱舟の物語に由来するもので、コーケイジアンこそ神に択ばれた種族であるという含意を持つ。モンゴルと何の関係もない東南アジアの原住民系の人々を「古モンゴロイド」などといって「モンゴロイド」に分類するのもまったくおかしなことである。このような自然人類学は、要するに、「白人」を、世界支配の資格のある「人種」として説明するために白人によって作り出された学問に過ぎない。

まして「アーリア系」、「アーリアン」などという分類には何の根拠もない。欧米のマトモなところでそんな言葉を使ったら、ネオナチ扱いされるかもしれない。

ところが、ネパールでは今でも、「アーリアン」「モンゴリアン」という英語が、ごく普通に教育のある人たちによって使われている。マオイストの活動家もこれらの言葉を振り回すのが大好きである。

この場合、「アーリアン」とは「バフン」「チェトリ」のいわゆるアーリア系上位カーストを指す言葉で、「モンゴリアン」はグルン、タマン、ライ、リンブー、マガル、タカリ、およびチベット人など、いわゆるモンゴロイド系カーストを指す。英語を話すネパール人には、日本人や中国人もモンゴリアンだと説明するものが多い。ただし、ヨーロッパ人が「アーリアン」かどうか、については、そう思わないネパール人もいるようである。また、被差別カーストの人は、どんなに「コーカソイド」的な容姿をしていても、ネパール人からは「アーリアン」とは看做されない。

これらの言葉がどのくらい浸透しているのかを観察してみた。

英語をまったく知らない人(保守的なチェトリ)には、「アーリアン」という言葉が通じなかった。彼らも「アーリアArya」という言葉は知っていると思う。たとえばコイララ元首相が火葬されたのはパシュパティナートの「アーリアガート」だった。しかし、バフン(バウン)とチェトリを一括して「アーリアン」と分類する発想は、伝統的にはないように見える。伝統的な人から見れば、バフンはバフンであり、チェトリはチェトリである。

だから、人間ないしカーストを「アーリアン」や「モンゴリアン」に分類する、今ネパールのインテリがごく普通に行っているやり方は、英語とともにネパールに持ち込まれたものであり、白人のアーリア主義者・人種主義者によってネパール人に教え込まれているものである、と見ることが妥当であると思う。

以上は前置きである。以上のことを確認した上で、現にネパールで行われている「アーリアン」「モンゴリアン」という分類を一応受け入れて、旅行者としての感想、印象を述べる。ここではネパール人の言う「アーリアン」を「アーリア系」とし、「モンゴリアン」を「モンゴロイド系」とする。

私はアーリア系と欧米白人とは本質的に同じ種族・連中だと思っていたので、欧米白人が嫌いなようにネパールのアーリア系にも最初から良いイメージは持っていなかった。

しかし、各種カースト・種族民族が混住しているネパールの田舎町にじっくり長期滞在してみて、私のアーリア系とモンゴロイド系とに対する印象、評価は少し変わってきた。

結論から言えば、最終的に一層嫌らしく排他的なのはモンゴロイド系カーストの連中であるように感じられる。安心して長くつき合えるのはアーリア系の人であることが多い。

モンゴロイド系は、最初は敷居も低いし人当たりも良く如才ない。概してアーリア系よりお洒落で、山村の同じ環境に生まれ育ってもアーリア系より洗練されて都会的に見える。アーリア系はガサツなのが多く、居丈高で最初は排他的に見える。

だから、ネパールに始めて旅行した日本人は(肉弁女を除き)モンゴロイド系カーストのネパール人と仲が良くなることが多いかもしれない。そうすると、「自分たちは同じモンゴロイド系だ」と相手から売り込んでくることもあるし、「ロングノーズ」(アーリア系)がいかにずるくセルフィッシュな人々であるかという話を聞かされることになり、なるほどそうかと思い込んでしまう場合もある。(しかし、アーリア系の連中も話をしてみると「モンゴリアンはセルフィッシュだ」と思っているようである)。

モンゴロイド系は敷居が低く如才ないかもしれないが、彼らは、「中に引き入れてから中で排除する」のである。中に入れて中に縛り付けておいて連携して八分にしようとする。要するにイジメが好きなのだ。チベット人を含むすべてのモンゴロイド系カーストが、アーリア系に比較してこの傾向を強く持ち、八分で連携するということが見えてきたように思う。(日本人ももちろんこの呼吸に同調するだろう)。

さらに、モンゴロイド系は嫉妬深い。嫌らしく嫉妬する。

モンゴロイド系は、女が男にでも嫉妬する。特に、私のような美男が現れると、最初は感嘆し、次に羨望し、褒めながらも奇妙な嫉妬心を募らせ、やがてあらを探しはじめ「復讐」しようとするのである。これは大変気持ちの悪い現象である。

私は肌がキレイである。ネパールの田舎の人には大変キレイに見えるらしい。髪もきれいらしい。これらのことは、アーリア系からもモンゴロイド系からも褒められるのだが褒める態度が違うし、その後の顛末はまったく違ったものになる。

肌がキレイだが何かクリームでも塗っているのかとアーリア系の人に聞かれたので、石鹸で洗っているだけだと答えると、「ジャティ(カースト)だね」ということになり納得されて終わりだった。つまり、それが日本人というジャティ(カースト)の身体的特徴だということで彼らは納得したのである。カーストが違えば何もかも違うのが当然だ、という原則に戻って納得したのである。

ところが、モンゴロイド系はこういう風にきれいに納得してくれない。彼らは安易に人を褒める。盛んに人を褒めるが、自分で褒めている間に妬みと怨念めいた鬱憤が募っていくらしく、ある時点から今まで褒めていた相手のアラをしきりに探し始める。そして、ここが弱点だ、弱点を見つけたと思い込むと、徹底的にそこをついて引きずりおろそうとするのである。日本人を含むモンゴロイド系の人間に良くある卑しい行動様式である。

モンゴロイド系は、自分たちがアーリア系より劣った種族であるという自意識を持っている。

日本人には少し奇異に見えるが、アーリア系は自分たちより頭脳が良いと本気で思っているモンゴロイド系が多いようである。(ヒンドゥ教カースト制度の影響だろうか)。

容姿についても同じで、自信がないせいか、他人の容姿をあれこれ批評することを非常に好む。面と向かってパーソナルリマークを平気でしてくる者も(アーリア系にももちろんいるが)モンゴロイド系に多い。とにかく嫉妬深い。

私の経験では、特にチベット人にこれらの傾向が顕著である。

チベット人は一般に、モンゴロイド系のなかでも容姿が醜い集団なのでコンプレックスも強いらしい。自意識も強くプライドだけは高いので、一層屈折した形で表現されるのだろう。

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The Mongoloids - Madheads T-Shirt - X-Large
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 The Aryan Jesus: Christian Theologians and the Bible in Nazi Germany
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Vrilology: The Secret Science of the Ancient Aryans
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「アーリア系」の婚姻

バサンタプルでチベット人の女の子たちに聴いた話だが、「アーリア系」カーストの人々(バフン、チェトリ)は、伝統的には生まれてすぐに結婚して、6歳ぐらいから同棲するのだという。(もちろん今この伝統を実践している人はほとんどいないと思う)。

結婚年齢が低いと聞くと、性に乱脈だと思い込む先進国の人が多い。タイ北部の山岳少数民族も伝統的に11歳くらいから結婚するようだが、そういう話を聞いて子供とセックスができると思い込んで殺到する白人や日本人が絶えないようである。(ただ、タイの場合は現実に白人を中心とした幼女買春がいまも地下で、とくにNGOやキリスト教ミッショナリーのカバーのもとで、広範に行われている)。

ネパールのいわゆる「アーリア系」のカーストは、性に関しては保守的だと思う。着るものにしてもモンゴロイド系カーストほど肌をあらわにしない。世間の目を気にし、しきたりに反した性的な行動を嫌う。児童の婚姻はそれがしきたりだったときは広く行われていたのだろう。

6歳から同棲したとしても、もちろんすぐにセックスするわけではないだろう。したくなったころから徐々にやっていくのであろう。

しかし、この制度は案外合理的かもしれない。

まず、「相手を選ぶ」という精神的な労力を省くことができる。自分の妻がブスでもデブでも、自分の顔を選べないように、それが自分に与えられた「分」だと割り切ることができるだろう。子供のうちから一緒に住んでいれば慣れることもできる。

セックスは、最初のうちは女にとって苦痛かもしれないが、割礼みたいなものだと思えば割り切れるだろう。そして、思春期のうちからなじんでいれば身体が相手に合わせて成長するだろうから、ちょうどいい具合にぴったり合うようになる可能性もある。外科的にどうかはわからないが、感覚的にはそうなっていくだろう。男のほうはたまにほかの女とセックスしても、やっぱり子供のときから慣れ親しんだのがやりやすいということになって、夫婦円満ということになるかもしれない。

こういう制度にも案外長い時間をかけた知恵が隠されているかもしれない。

プロティーマ・ポウデル 15歳@バサンタプル

ネパール東部、テルトムTerhathum地区、バサンタプルBasantapurで。行きつけの茶店(写真の場所)の姪(女主人の妹の娘)。この隣に住んでいる。カーストはチェトリ。

ちょっとシャルダンの絵みたいに撮れたかな、と思っていたが、シャルダンの絵をネットで見てみたらまったく違っていた。

古びた小さな長屋のような家に住んでいるが、アンナプルナホテルのラクシミの毎日に比べれば、プロティーマの生活は貴族の生活のように見える。

去年は制服姿を見た記憶があるが、今年は見ない。しかし今も学校に通っている。(この辺では午前中のみ)。10年生くらい。

よく勉強をしている。ただ、彼女の同級生(チベット人)に言わせると、彼女はよく勉強するけど出来ないのだとか。(たぶん嫉妬だろう)。学校に通うほかは、自習したり家の仕事を手伝ったり弟と遊んだりゴロゴロしたりしている。

彼女はキレイに見える。同級生たちもそういう。

念のためにいうと、「アーリア系だから」というわけではない。彼女と同年齢には、もっと「白人みたいな」アーリア系の女の子が何人かいる。しかしそういう子達は却って土着的に見え、彼女のような華やかさはない。彼女は顔立ちが美しいというわけではないが、不思議な華やかさがある。

シャイであまりしゃべらず、(ネパール人としては)声も小さい。沈鬱な表情でぼっとしていることも多いが、なぜか明るい印象を与える。

いつも友人たちのグループの中心にいる。自然にそうなってしまうというタイプの人のようだ。

彼女のいるところには明るさと華やぎがある。ラクシミ・バラールの暗い魅力とは対照的な明るい魅力のある人。どこまでも「表の世界」の人という印象。18歳くらいだと思っていたが、まだ15歳だった。

母親は34歳。地味で無愛想だがしっとりしたなかなか魅力のある人。父親はカトマンドゥに出稼ぎに行っていていつも不在。今年も去年も一昨年も、見たことがない。その仕送りで生活しているらしい。

下)弟と日向で勉強するプロティーマ。この弟は私立の「イングリッシュボーディングスクール」に通っているのでまだ小学生だが英語が出来る。苦手な英語を教えてもらっているのかもしれない。彼女は公立学校。

ただ、彼女の取り巻きにはなぜか「アーリア系」の子がいない。彼女とは対照的な容姿の「モンゴロイド系」の子ばかり。「モンゴロイドの哀しさ」というのは言い過ぎだろうが、取り巻きの子とはかかわりあいにならないほうがよさそうだ。

日本でも同じことで、スター的な女子生徒の周りにいるあまり美しくない女の子というのは、顔も悪ければ根性も歪んでいるというのが通例だろう。

青いショールがプロティーマ。

ラクシミ・バラール 15歳@バサンタプル

ネパール東部、テルトムTerhathum地区、バサンタプルBasantapurで。バスパーク近くの「アンナプルナホテル&ロッジ」(英語看板はない)の娘。カーストはチェトリ。

(ネパールで「ホテル」というのは食堂・居酒屋のこと。泊まる施設は「ロッジ」という。山ではたいていの「ホテル」に泊まるところがある。Hotel & Lodgeという看板を出しているところも多い)。

写真では全然理解されないと思うが、私はこの子が可愛くてたまらない。こんなに暗いのに、死んだような目をしているのに、どうしても可愛い。

気になって仕方がないので、きっと悪い子なのだろう。そうでなければこんなに可愛いはずがない。

去年も今年も、早朝から夜10時ごろまでずっと働きづめ。調理場の仕事も客室の仕事もある。汚れた、ヨレヨレの、短くなったジャージのズボン。水洗いを繰り返した穴の開いたセーター。ショールは肩に巻いたり腰に巻いたりする。腰に何か巻いていることが多い。

去年は物静かで、いつも笑顔を絶やさず、直向(ひたむき)という言葉がぴったりな姿勢で黙々と働く、本当に「天使のような子」だった。(ちなみに本当の天使が降りてきたりしたら大変な恐怖らしい)。

今年は少し俗味が出てきてしまったかもしれない。

しかしそれでも可愛い。二月近くバサンタプルにいた間、毎日この子の顔を見ていたが、どうしても気になって仕方がなかった。

どういうふうに気になるのか、というのを説明するのが難しい。ひとことで言うことも出来るが、それは最後のほうにしたい。

上の写真は「アンナプルナ・ホテル」の屋上。3階建ての鉄筋のビルを建てている家の娘であり、この辺ではかなりの金持ちの娘といえる。

ところがこの子は、14歳だった去年から朝から晩まで一日中働きづめ。この町ではもっと貧しい家の娘でも午前中は学校に通うのが普通である。家の仕事が忙しい子でもテュイションなどに通う。しかし、去年から、ラクシミが勉強をしたりテュイションに通う気配はまったくなかった。「親の方針」なのだろうか。

アンナプルナホテルの女主人は自分の娘だというし本人に聞いても娘だというが、町の人に聞くと、「あそこには娘はいないのではないか」という人がいる。「あの子は下働きではないか」という。しかもそういうのが、ラクシミと同年齢の女の子(チェトリ)なのである。その子は公立学校に通っているが、いつも良く勉強している子である。この町に公立学校は一つしかないから、もしラクシミが少しでも学校に行っていたら、彼女のことをもっと知っているはずである。少なくとも、アンナプルナホテルの娘なのか下働きなのかぐらいの区別はつくはずだ。ということは、ラクシミは公立学校にもほとんど通わなかったということだろうか。

娘と称しているが実は家内奴隷的な下働きなのではないかと一時思ったが、時間をかけてよく観察してみて、 やはり家の娘だという結論に達した。親の方針なのだろう。もっとぼろいロッジでも英語看板を出しているところが多い(特にチベット系)が、ここは大きいにもかかわらず英語看板を出さない。親も教育がないという噂(教育がない人はいっぱいいるがぼろい長屋に住んでいる女の子がそういう)。親も本人も英語はまったく話せないし話そうともしない。両親はガサツ極まりないチェトリである。父親が色黒どんぐり眼で母親は色白でギリシャ人のような顔。母親の性格がどうしようもなく悪い。この子の顔立ちはどちらかといえば父親に似ている。

14歳だった去年から終日労働の日々。重い荷物を運んだり、鉈で薪割りもする。

下)改修中の自宅ホテルの前を掃除するラクシミ。

立ち働いているときの全身像を見ないと、この人のもって生まれた、えもいわれぬ可愛らしさは分からない。

よく働く。小さいときから働かされているせいか、働き方がまっすぐで癖がない。無私と諦念さえ感じさせる表情で黙々と働く。

極めて控えめだが、独特の可愛らしさとある種の品の良さがある。

そして、色っぽさ、というより暗い吸引力がある。それは去年からそうだった。とにかく暗い。笑顔でも暗い。胸に「暗黒物質」でも抱えているような暗い引力があり、子供のような小さな声で話す。よく話しているのだが、ほとんど話していないように思える。

どこが出ているとか引っ込んでいるということは関係なく、存在全体がとても魅力的で、小柄な全身から匂い立つような色っぽさがある。

兄が二人いる。

しかし、女性からの評判は良くないようである。ある(別の)同年齢の女の子(チベット人)は、彼女の名前を聞いただけで、何も言いたくない、というような露骨な嫌悪の表情を見せて黙ってしまった。なぜ嫌っているのか理由は聞かなかったが。

朝からこざっぱりした身なりの男が店にやってきて、彼女にまとわりついていることもある。彼女のほうはごく普通の態度で表情も変えない。一緒に出歩くようなこともない(そういうことはこの町では普通しない)。親も無関心である。

夜は近所に駐屯する迷彩服の兵隊や武装警察が、親がそこにいるにもかかわらず店の前をうろうろして、ニヤニヤしながら彼女に目配せして誘い出そうとする。彼女の表情はここでも変わらない。私が見ていた限りでは兵隊もやがてあきらめて退散した。

いつも死んだような目をしてあいまいな笑顔を浮かべているが、一度だけ普段とはまったく違う視線を見せたことがあった。目がキラッと光ってまったく別人の顔になった。完全な「女の目」をしていた。この人は怖いと思った。普段のあの目は何なのか。2ヶ月近く見ていてたった一度のことである。

この人が「本当はどういう人なのか」つかもうとしたがつかみきれない。そんなことを考えるほうがおかしいのだろう。

下)コイララ火葬の実況に見入るラクシミ。

暖かくなってきて、腰に布を巻かなくなると、下はヨレヨレのジャージだけになってしまうことがある。いつもはいているジャージの尻の少し下の左側に、直径1.5センチぐらいの穴が開いている。そこから肌が見えてしまう。それを見るのが苦しかった。

ネパール人はうずくまるようにして食事をとることも多いが、彼女が仕事の合間に調理場にうずくまって食事をしている背中を見ると、なんというのか、胸詰まるような気持ちになる。(ヤリタイという気持ちなのかもしれない)。

下)店の前の水場で、歯ブラシを髪に挿して顔を洗うラクシミ。