ネガティブとポジティブ2

ネガティブとポジティブ2

2. ネガティブは素敵なことではないか?

途上国の最下層の生活をしている人々や、本当に困窮していると思われる人々を見る機会もありましたが、悲嘆に暮れた顔をしている人は少なく、むしろ固まった表情で感情の動きも止まっているように見える人が多かった。本当に困窮するとネガティブでもいられないようである。

ネガティブであるということは、余裕のある証拠であるだけでなく、それ自体、「豊かさ」なのではないかと思うことがある。人間はそもそもネガティブが好きだ。古代の偉大な文学作品も悲劇が多い。本格的な物語は悲劇が多く、悲劇に比べれば喜劇は軽く扱われる。ハッピーエンドが大好きという文明は、子供な文明だろう。すべてハッピーエンドで「なければならない」と要請されるような文明は、全力で走り続けていないと死んでしまう仕組みがあり、欺瞞の上に立つ巨大建築で、見抜かれたら直ちに瓦解してしまう恐怖を皆が共有しているような、不健全な文明だと思う。万葉集は特権階級のために特権階級が編輯したものだが、貧窮問答歌とか、今の言い方で言えばネガティブな作品満載である。彼らが好きで集めたのであり、ああいう話が好きだったのだ。そもそも古代に、今のようなネガティブとポジティブの区別があったのだろうか。「悲」という漢字は、両翼が引き裂かれるような心という意味であり、切なる感情の動きを指し、必ずしも「悲しい」という意味に限らない。愛の意味もある。慈悲、悲母観音、悲田院、など。日本語の「かなし」も両方の意味があった。古代の人は、正負の区別をせず評価を抜きに、強い感情の動きを強い感情の動きとして捉えていたのだろう。だから、我々がポジティブだネガティブだと言っている区別自体が、どこの馬の骨とも知れないぽっと出の教条だと言える。

3.存在すること

正があれば必ず負がある、この世は正負の対で成り立っている、ということはできるが、では正と負は対等平等なのか、というと疑問である。この世はとにかく存在しているとされるのであり、存在の世界である。存在するということはそれ自体「正」、ポジティブなのではないか。ポジティブだネガティブだというが、根源的なポジティブの土俵の上での相対的なポジやネガにすぎない。ネガティブもまた存在を主張する以上、ポジティブなのだ。

生きている人は、死をネガティブと考える。生命が減っていってゼロになると死になると考えるが、これは論理的だろうか。常識的な理屈で素直に考えれば、死は死んだ者にとって無である。電源を落としても大丈夫な記憶装置は、生身の人間にはない。電源を落とした途端、脳は腐り始める。記憶の世界にある事柄、つまり心は、遡及的に消失する。感情と意思の主体たる「わたし」は、生まれなかったとまったく同じ「無」に帰する。(大槻義彦氏の「人は三度死ぬ」は非科学的)。仮にそれ以上に何かあるとしても、それは人間の想像を超えた世界のことであり、語るべきでない。人間も電算機と変わらない。電算機も、最近の噂では、感情や意思を持ちうるという。人間が一種の電算機ロボットであっても不都合はない。

要するに、ネガティブも有の世界の属し、ありがたいものである。ネガティブを愛する人間は常におり、趣味の問題だ。しかし、我々は根本的にはポジティブな、存在する世界に属していると考えられる。

4. 私の技法

ポジティブシンキングも「引き寄せの法則」も、実生活で良い思いをしたい、現世利益を得たいという要求に答えて唱えられ支持を集めたものである。だから、私もそれに代わる処世法を一応提示しておこうと思う。

まず、健康の価値。これに気づいていない人が、特に男性に非常に多いが、幸福でいたいなら一番に考えなければならないことだ。物質は意識を規定すると考えておいたほうが絶対に無難である。物質の第一はお金でなく、自分の身体である。

健康を保つ方法を考えるときも、オカルト業者のように「意識で健康になれる」とか思わないことが重要。それはただの怠慢である。仮に、心がけで健康になれるとしても、心はコロコロと変わるからココロというのである。それに比べれば肉体の変化は遅い。だからこそ、肉体に直接働きかけるのが堅実である。物質が意識を規定する、と考えておくのが絶対に無難である。

具体的な方法は人それぞれだが、できるだけ長い時間をかけて自分の身体と健康を考えること。身体にはそれだけの価値がある。カネのことを考える暇があったら身体のことを考えたほうが良い。「スピリチュアル」の先生方も半病人のような人が多い。身体をおろそかにして意識とか変なことばかり考えているからではないか?

私のおすすめは、やはりハタヨガである。なるべく神秘主義を削ぎ落としてやる。アクロバットに走らない。特に重点的にやるとしたら、パスチモタナ・アーサナ https://youtu.be/ZhmVIsd-CtM とアルダ・マッチェンドラ http://ift.tt/1gKp0rD およびウディアナバンダ https://youtu.be/vZLn6ExV1Ao を毎日少しずつ続けること。未経験の人は、数ヶ月で世界の見え方が変わってくると思う。

食べ物についてはあまり苦にしないほうが良いと思うが、私はなるべく「ヒマワリの種」を食べるようにしている。

一応、「心がけ」についても、私のやっている範囲で述べておきたい。

まず一番大事なのは「気をつけていること」。健康を損なう原因は病気だけでなく、事故が大きい。この意味でも、「気をつけること」はいくら強調しても足りない。上座仏教のヴィパッサナのような小難しいことは一切考えず、常識的に、いつも気をつけていることが大事。日本では、バスルームで転倒しても大怪我をしない。家の中も町も周到に安全にできている。一方、途上国のローカルな生活では、日本のような不注意な振る舞いをしていたら、部屋の中でも町でもケガだらけになる。尖った出っ張りはあちこちにあるし、歩道には穴もある。足元に気をつけて歩いていると、顔の辺りに鉄の棒が突き出していることもある。このことが示しているのは、日本の生活にどっぷり浸かっている人は、外の世界をほとんど見ていないかもしれないということである。ほとんど見ていなくても普通に過ごせてしまうからだ。客観的な世界をほとんど見ないで妄想世界だけで生きていることが多いのではないか?そういうことも考えて見る価値がある。

もう一つ、最後に。ちょっと抹香臭くなるが、祈ることが有効である。特に「敵のために祈る」ことは現実に有効である。心にもないこと、で良い。形だけで良し。祈りは鉾になり盾になってあなたの心を敵から守ってくれると思う。一回だけ試してみることをおすすめする。あなたの神に、(神でもなんでも良いが)、「☓☓(=敵)が幸せでありますように」とか祈ってみる。効果はすぐにわかると思う。口だけで良いのである。心にもないことで十分で、呪いではなく祈りであれば良い。

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