Monthly Archives: February 2015

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クアラルンプールに滞在していますが、良いインターネットカフェが見つからず、ゆっくりパソコンに向かうような環境にないため、もっぱらタブレットと宿のWi-Fiで、ツイッターにその時々のことを書いています。写真も一応少しは上げているのでご覧ください。
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一神教(Monotheism)擁護

一神教の起源:旧約聖書の「神」はどこから来たのか (筑摩選書)

一神教は危険」で「多神教は寛容」(だから日本は寛容)という俗説をツイッター辺りでもよく見かけますが(単に自分がフォローしている人がそういうのをたくさん垂れ流しているだけかもしれないが)、そんなことはないと思います。それは要するに、「神」という言葉の定義の違いに過ぎないと思います。あるいは(一神教的に定義された)「神」をもつかもたないかの違いだと思う。

また「神」をもつには、結構「頭」が必要だと思う。仮に当事者は頭が悪かったとしても、その人たちが受け継いでいる先行文明がかなり頭を絞って突き詰めて考える文明でなければ、唯一の「神」はもてなかったのではないかと思う。(なお「唯一神論」というのは三位一体説がらみの論争で出てきた異端のことらしいです)。

カントなど読んでいると、非常に合理的で、宗教臭さは感じませんが、さらっと唯一の神を論証してしまいます。要するに、物事には原因があり、その原因にも原因がある。すべての事象の原因を遡れば一つの原因に行き着くはずだということでしょう。もしも究極の原因が複数あるということになると、無限性を持った空間が複数併存するということになってしまい、世界に矛盾が生じてしまいます。

そういう理屈はいいとして、自分が神を信じられるか、ということは問題です。

神が存在するなら、唯一の神でなければならない。唯一の神は存在すると私は思う。

人間の直観の形式には、どんなに理屈をつけても限界があります。たとえば、「空間はヒモ状だった」という理論があるとしても、その空間(全宇宙空間)をイメージする時、(普通の)人間は3次元の空間の中に浮かんでいる「ヒモ」をイメージすることしかできません。(例外的な天才はどうかわかりませんが)。

同じように、人間は、「第一原因として作用する存在」を受け入れる時、自分の感性の形式の限界に沿って受け入れることしかできません。人間が「人格」的な存在だから、全知全能の第一原因も「人格」というような感性の枠でしか受け止められない。「人格」というのはそもそも一つの形式であり制約なので、全能者にふさわしいとは言えないはずですが、それが人間の限界である以上、全能者に近づこうとすればするほど、その存在は人間的な形式を帯びてしまう、と言うことになるのだと思う。これが、「神の似姿」の秘密でしょう。それを言ってはおしまいですが。全知全能の絶対的な存在に、「姿」があるはずもなく、性格(=制約)があるはずもない、と考えるのが合理的です。人間に全能性が与えられたというならともかく(全能者が複数存在するというのも世界の矛盾になりますが)、無制約な存在に「似せるべき性質」があるか、ということになります。

そこで唯一可能な性質として残るのが、つまり、神と人間が唯一共有できると思われる性質が、「意志の自由」ということになるのでしょう。「意志の自由」自体は、実現能力の制約に関わりません。神は人間を愛するがゆえに人間に「自由」を与えた。だから、人間は悪いこともなしうる。最高善である神の創造になるこの世界に「悪」も存在しうる。というように説明されることが多いと思う。(とはいえ、「意志」をもつ知力もない人間もたくさん存在しますが)。

このように唯一の神は存在するし、「考える」ことができます。しかし、そのような神を信じられるか。

先にも述べたように、神を信じるということは、そこに限界まで近づこうとすることであり、人間である自分の人格の形式(限界)に、その絶対者を隙間なく充満させるということです。それは主観的には、人格として現れる神の前に自分を粉々にして、すべてを捧げるという意識になるのでしょう。

私は一応、イランで改宗した「シーア派のムスリム」ですが(棄教は死刑)、神を信じているかと問われたら、「信じている」と答える自信がありません。まして、「12イマーム派」の信徒と言えるかと問われたら、現実にはまったくそうは言えない。「本当に信じている人」は、お隠れになっている第12代イマームが現にいまも見えない形でおられ終末の時にマフディとして再臨する、ということを疑いなく信じており、礼拝室などで祈るときも、シーア派の苦難の歴史に自分の感情を同期させてか、礼拝しながら人目も気にせず泣き崩れたりするのです。イランではそういう場面を何度か見ました。そういうのが本物の「信仰」なのでしょう。その意味では、私は何の信仰ももっていないと言わざるを得ません。

話がずれてしまいましたが、私はもうそう長く生きられないような気がします。自分の一生を振り返って思うことは、何も信じず、何も愛さず、人にぶら下がってただ生きてきただけの人生だったな、ということ。自分は生まれてこなければよかったとは思う。

死んだらどうなるのだろうと思うのですが、私は大槻義彦教授のような立派な人ではないので、この世には何の痕跡も残していない。大槻先生は三度死ぬそうですが、私はただ一度、生物学的に死んで何も残さない。家族も友人もいないので、人の記憶にも残らない。ブログが一定期間残るくらいでしょう。脳が破壊されれば、意識も記憶も最初から生まれてこなかったと同じように遡及的に消滅するはずです。つまり、「無になる」ということ。「なる」というのでもない。「無であった」ということ。その無とは何だろう。有でないことです。では、有とは何だったのだろう。自分は「存在していた」のだろうか。今も存在しているのだろうか。有が存在しているとしたら、存在が存在しているのだとしたら、今あるものは、もしあるとすれば、存在しているものを存在せしめた原因に「返済」するように回帰するのではないか。無が基本であり常態だとしたら、存在しているものが存在しているということが、非常に特別なことになり、なぜそんなことが生じているのか、大変不思議なことになるはずです。

 

 

<産経新聞>曽野氏コラム、南ア大使も抗議文 人種隔離許容

産経新聞が掲載した作家の曽野綾子氏のコラムにアパルトヘイト(人種隔離)を許容する内容が含まれているとして、南アフリカのモハウ・ペコ駐日大使が同紙に抗議文を送っていたことが14日分かった。同紙によると抗議文は13日付。

【「アフリカ日本協議会」が送った抗議文】コラム掲載日は、マンデラ氏の重要な日だった

問題視されているのは、産経新聞11日付朝刊の「労働力不足と移民」と題したコラム。曽野氏は労働力不足を緩和するための移民受け入れに言及し、「20〜30年も前に南アフリカ共和国の実情を知って以来、私は、居住区だけは、白人、アジア人、黒人というふうに分けて住む方がいい、と思うようになった」などと書いた。

同紙によると、ペコ大使は「アパルトヘイトを許容し、美化した。行き過ぎた、恥ずべき提案」と指摘。アパルトヘイトの歴史をひもとき、「政策は人道に対する犯罪。21世紀において正当化されるべきではなく、世界中のどの国でも、肌の色やほかの分類基準によって他者を差別してはならない」としているという。

via <産経新聞>曽野氏コラム、南ア大使も抗議文 人種隔離許容 (毎日新聞) – Yahoo!ニュース.

日本が少し変になってきたような気もしないでもないですね。

私は悪い意味で個人主義なので、つまり自分さえ良ければ良いという立場なので、自分が現に貧乏だから金持ちが嫌い、金持ちからたかれるほうが良い。富者を搾取せよ。保険料や年金は払いたくないし消費税もない方が良いが良い、福祉は手厚くすべきという立場。

しかしもし万一、自分が働かなくても食べていけるような金持ち(本当に「金持ち」と言える部類の金持ち)だったら、富裕層減税、福祉切り捨て、貧乏人からギリギリまで絞りとって使い捨てる政策を支持すると思う。

テレビも見ないし新聞も取っていない。ニュースはネットのみ。特に関心のあることがあるわけではない。関心があるのは、自分が遠くない将来受けることになるであろう生活保護制度の行方ぐらいです。

実は日本がそれほど嫌いというわけでもない。外国に行けばたいていの国で「日本のほうがマシ」と思ことが多いのは事実。「日本は素晴らしい」「日本はすごい」「欧米人は日本が大好き」とかネゴトを言ってる連中が大嫌いなだけで。

そんな立場だが、それでももうすぐ「逃げる」ことにしている。当分の間は逃げていたい気持ちがする。ただ、カネに余裕がなくなってきたからあまり移動はできない。外こもりですね。

「動物的な勘」としか言いようがない。ネトウヨ連中は将来もある若い人たちだろうに、何も感じないのかな。

「ネトウヨの定義」は?とかいうなら、「テロの定義」を教えて欲しい。一定の領域を実効支配している武装集団が、侵入してきた敵対勢力の戦闘員を殺すのは「テロ」ではない。ついで侵入してきた「敵性国」の自称ジャーナリストを捕まえて殺すのも、「殺人」ではあるし国際法上の問題はあるかもしれないが「テロ」ではない。その勢力に対する「敵性国」宣言をしたのは日本国の首相自身。ISILが悪党なのは当然として、当時現に捕縛されている人質がいた。彼らを解放する意志があったとしたら、そのための方便として賢明な振る舞いをしたと言えるのかどうか。とりあえず日本人人質をトリモロシてから、いくらでも悪態をついてアメリカでもヨルダンでも支援すればよかったのではないか?アラビア語ができる有名なスンニ派日本人が二人いてISILと交渉できるのは彼らだけだと言われていたのに、日本政府は利用しようともしなかったようだ。

最近では「首相を批判する者はテロ支援者」などという言説がまかり通っているらしいが、どう見てもおかしいだろう。

近くイスラム国に渡航しようと思っている。マレーシアには国教というのがあって、イスラム教が国教ということになっているので、マレーシアはイスラム国です。

マレーシアだってかなりひどい国です。「シーア派」ムスリムは、シーア派だというだけで逮捕される。「キリスト教の自由」はあるから西側からは何も言われないが、シーア派の「信仰の自由」はない。シーア派の秘密礼拝が時々摘発されている国です。(その割にイラン人観光客はニコニコ受け入れているので何を取り締まりたいのかよくわからないのですが)。サウジアラビアなどもっとひどい国だ。

知らないと恥をかく世界の大問題 学べる図解版 第4弾 池上彰が読む「イスラム」世界 (―)

シーア派イスラーム 神話と歴史 (学術選書)

首相とか閣僚はやっぱり最低限の学歴のある人にやらせるべきだと思う。縁故なしの無学歴という田中角栄みたいなのはまた別だが、縁故だけはあって低学歴というのはいちばんまずい。

曽野綾子さん「移民を受け入れ、人種で分けて居住させるべき」産経新聞で主張

2月11日付の産経新聞コラムで、作家の曽野綾子さんが、日本の労働人口が減少している問題について触れ、移民を受け入れた上で、人種で分けて居住させるべきだ、と主張した。

「近隣国の若い女性たちに来てもらえばいい」と今後需要の増える介護について移民を受け入れる一方、「移民としての法的身分は厳重に守るように制度を作らねばならない」とした上で、

もう20〜30年も前に南アフリカ共和国の実情を知って以来、私は、居住区だけは、白人、アジア人、黒人というふうに分けて住む方がいい、と思うようになった。

(産経新聞 2015/02/11付 7面)

と住居の隔離とも取られかねない主張を展開している。

さらに、南アフリカでアパルトヘイト(人種隔離政策)の撤廃後、白人専用だったマンションに黒人家族が一族を呼び寄せたため、水が足りなくなり共同生活が破綻し、白人が逃げ出したという例を出し、「人間は事業も研究も運動も何もかも一緒にやれる。しかし居住だけは別にした方がいい」と締めくくっている。

via 曽野綾子さん「移民を受け入れ、人種で分けて居住させるべき」産経新聞で主張.

米国:イスラム教徒3人射殺される 白人男逮捕 動機不明

【ワシントン及川正也】米南部ノースカロライナ州チャペルヒルで10日、地元のノースカロライナ大学に通う男子歯学生(23)らイスラム教徒の家族3人が近所に住む白人の男に銃で射殺された。男は地元警察に出頭し、殺人容疑で逮捕された。地元メディアが伝えた。男はクレイグ・スティーブン・ヒックス容疑者(46)。殺害されたのは歯学生の妻(21)と妻の妹(19)。地元警察は動機や銃撃の状況を明らかにしていない。

via 米国:イスラム教徒3人射殺される 白人男逮捕 動機不明 – 毎日新聞.