Monthly Archives: September 2014

死んだらどうなる

私は基本的に、唯物論(タダモノロン)から出発しており、高尚になろうと頑張ってもタダモノロンを拭い去ることが出来ないホンネがあるため、大槻義彦先生のような論者には非常に共感を抱くところがあります。死後の世界とか、霊魂などは存在しない。死んで霊界へ行くとか、輪廻するなどというのは、人間がこしらえた妄想です。

しかし、大槻義彦先生の考え方にすべて賛成というわけではありません。特に彼の主張する「人は三度死ぬ」(彼の独創ではないかもしれませんが)はいただけません。大槻先生は次のように言います。

ヒトは3度死ぬ
ヒトは死ぬことなく、あの世に行って霊となって生き
続ける、とまことしやに言う者は多い。しかし、そのよ
うな霊界の存在はきわめて非科学的で、物質的な意味で
霊界はない。
しかし、ヒトが死んだあと、何も残らないというのは
ウソである。それなら一体何が残るのか。それはその人
の思い出、その人の歴史、そのヒトの言動などが語りつ
がれて後に残る。つまりその人の情報は残るのだ。この
種の情報を霊と言えば『霊界、霊』は残る。
ヒトは物質体としてのみ生きているわけではない。情
報のやりとりとして生きていることも重要である。この
意味からすればヒトは肉体の死だけが死ではない。その
人の情報が完全に失われたときが2度目の死である。
アルツハイマーなどの認知症で情報の交換がほとんどできなくなった状態も一種の死であ
る。肉体は生きているのに社会的にはすでに死んでいる
のだ。
…..(中略)…..
認知症でなくても社会から完全に忘れられる場合も事
実上の死である。身内との情報交換もなくなり、友人も
死に絶えて、何の交流もない状態。肉体は生きていても
事実上死んでいる。
したがって、私の死生観は次のとおりとなる。
『ヒトは3度死ぬ』
一度目の死:世間から忘れられ、親族からも見捨てら
しまった状態
二度目の死:肉体の消滅
三度目の死:その人の生きた印の情報が完全に消え
てしまった状態

初めのほうで「2度目の死」と言っていたのが、最後には三度目の死になっているのが変ですが、そういうことはここでは良いとして、「ヒトが死んだあと、何も残らないというのはウソである。」「その人の情報は残るのだ。」というのはどういうことでしょうか。

「その人に関する」情報が残る、ということでしょう。「その人自身の情報」(メモリー)は完全に消滅するのです。死後の世界があるかどうか、という問題は、「その人自身のメモリー」がどうなるかということであって、「その人に関する情報」がどうなるかということではありません。それはまったく別の話です。つまり大槻先生は、「虚無」という真実を避けるために話をすり替えている、といえます。

「その人に関して他人が持つ情報」によって人の「死の意味」(生の意味・価値)が変わってくる、ということになれば、人間に貴賎ありということにならざるを得ません。世間からも親族からも見捨てられ仲間も味方もいない浮浪者は、死んだも同然だ、というのが大槻先生の思想です。そんな人は肉体的に死んでも後に伝えられる情報が残るわけではないから、3分の2は死んでいるということになります。3分の3バッチリ生きている大槻氏のような人間に比べれば、命の価値も多く見積もって3分の1ということになるでしょう。3/3バッチリ生きている人の利益のためなら、いっそ殺してやったほうがいいということになりかねません。大槻氏の思想は、大変危険なものを秘めていると言えます。

「物質体としてのみ生きているわけではない」人間の「霊魂」を、「その人の情報」とし、その人が主体的に保持している「その人自身の情報」のことだと考えた場合には、それを「そのまま」伝えることが出来るものか、疑問です。「人格」と言われるものをコンピュータにコピーできるかどうか、というような問題になるでしょう。生きていても統合を失いかねない複雑なニューロンの働きです。常に変化し運動し、新陳代謝し(脳細胞は死ぬだけのようですが新しいシナプスで新しい連絡を作ることは出来る)、体全体の影響を受けながら、「生きて」いる脳の活動が、「心」です。

私は、「その人自身の情報」を残したり伝えたりすることは出来ないと思います。脳が死滅すれば、意識がなくなるだけでなく、記憶もすべて失い、その人にとっては、世界のすべてが遡及的に消滅します。遡及的に消滅するということは、生きたという記憶もなくなるということで、「生まれなかったと同じ」ことになるということです。それは生きている人間にとっては想像もできない現実ですが、「死」とはそういうものであり、軽々しく語ることが出来ないものです。

もちろん、客観的な世界は残るでしょう。生きている無数の人も残ります。それぞれの人の、「その人自身の情報」の中に、死んだ人に「関する」情報も残るかもしれません。しかし「人は死んだらどうなるか」という時のその「人」自身の情報は、脳の死滅とともに完全になくなります。

これは正視するにはあまりにも怖すぎて正視できない現実です。まじめに考えて震え上がらないというのは欺瞞だと思います。ただ、われわれはみんな必ず死ぬので(いまのところ)、いつかはこの怖ろしい際(きわ)を越えて、あるいはぶつかって、虚無に至ることになります。そう考えながら、虚無でない(とされる)この世を生きていくことは、非常に苦しいだけでなく、気が狂いそうになることです。だからこそ、どうせ行く先が同じことなら、ウソ(根拠のない物語)であっても「何か」を信じて生きるほうが本人にとってトクだし、生きている他の人にとっても有益だという人類の経験から、宗教が生まれたのでしょう。

「遡及的に消滅する」という真理を本気で直視していたら、世界は何もかも「意味」を失います。何度死ぬとか「情報」とか、そういう与太話はまっさきに無意味になるでしょう。人道とか、社会とか、倫理とか、自由とか、人権とか、全部無意味なものになります。意味のあるものの背後には必ず、根拠の説明できない信仰があるとも言えます。

神が存在するかしないか、形式的に考えて確率は2分の1なので、どちらに賭けるしかないが、どちらに賭けるのがトクか、という話がありました。生きている間は、神が存在してもしなくても、存在するものと信じて生きたほうが気はラクだし、信仰をもっているほうが頑張れるとか実益もあります。死んだ後、神が存在しなければハズレですが、何もないのであれば、そう信じていたことによって不利益を受けることもありません。もし神が存在していたなら当たりであり、信じていたことによって利益を受けることになるでしょう。だから、神の存在の確率が2分の1でも、存在する方に賭けて信じるほうがトクだという話です。たとえ神や霊魂が存在する確率がゼロであっても、人はみないずれは死ななければならず、タダモノロンで生きることが非常に苦痛であるなら、確率ゼロの物語でも信じて生きることが合理的でしょう。そうでないという人は、真にタダモノロンで生きるということをよく考えたことがないのだと思います。

タラントン

英語の「タレント」talentの語源はギリシャ語の「タラントン」τάλαντονです。新約聖書のマタイ福音書に出てくる「タラントンのたとえ」の縁でラテン語に入り、英語に入った言葉です。1タラントンは36キロぐらいで、銀貨で6000デナリウス(デナリオン)にあたり、典型的な労働者の日当が1デナリウスとされ、新約時代のローマの兵隊の年俸が300デナリウス程度だったので、1タラントンは、兵隊の20年分の給料と同程度になります。

「タラントンのたとえ」は、マタイによる福音書だけに出てくるイエスのたとえ話です。ルカの福音書にも似たようなたとえ(「ムナのたとえ」)がありますが、タラントンのたとえに余分な尾ひれをつけただけに見えます。福音書の中で最も古い層の伝えを反映していると言われるマルコによる福音書には出てきません。

「タラントンのたとえ」はだいたい次のような話です。

ある人が、旅に出る時、3人の僕に財産を預けて行った。それぞれの「能力に応じて」、5タラントン、2タラントン、1タラントンを託した。5タラントンと2タラントンを託された僕は、それで商売をして、それぞれ倍にしたが、1タラントンしか託されなかった僕はそれを土の中に埋めてそのまま保管していた。主人が帰ってきた時、5タラントンと2タラントンの僕たちは、商売で増やした財産を見せ、主人に褒められた。そして「お前たちは小さなものに忠実であったから、より多くのものを管理させよう」と言ってもらえた。ところが、主人を怖れて、少なくとも減らさないようにと土に埋めておいた1タラントンの僕は主人の怒りを買う。「どうして銀行に入れて置かなかったのか。そうすれば利息がついただろ」といわれ、怒られただけでなく、その1タラントンも取り上げられて10タラントンの僕に与えられ、「役立たずの僕」は「外の暗闇」に放り出される。「だれでも持っている者はさらに与えられて豊かになるが、持っていない者はその持っている少しのものも取り上げられる」というのがこのたとえの結び。

こういう法則を欧米ではMatthew effectというそうです。この喩えの解釈についてはキリスト教徒の間では「ありがたい解釈」があるのでしょう。しかし、キリスト教が資本主義(近代資本主義にかぎらず金融経済)に馴染んだのは、こういう教えが入っているからではないかと私には思えます。

ちなみに、1タラントンの僕の主人に対する言い訳は、「あなたは蒔かないところからも刈り取り、散らさないところからもかき集める厳しい方だと知っていたので、恐ろしくなって地下に隠しておいたのです」というものでした。主人の方もそれをそのまま認め、「そうと知っていたならなぜ銀行に入れて置かなかったのだ」と叱りつけるのです。聖書の神はそういう性格をもった人格神であるということです。この点に関して、1タラントンの僕が「本当のことを公言してしまったから制裁を受けることになった」という解釈もあるそうです。

沖縄独立がんばれ!

私は以前から沖縄独立大賛成です。沖縄の人に頑張ってもらいたいと思っています。

その理由は、私が「反日」なので、反日的なものにはとりあえず賛同する、ということが一つあります。沖縄が独立すれば「日本」を相対化することにもなるでしょう。同時に、私は日本語以外の言語は十分に使えない日本人なので、日本語を共通語とする外国が一つでもできたらエキサイティングだと思う気持ちもあります。今でもパラオのある州の憲法では日本語を公用語と定めているそうですが、形式的なものに過ぎず、おそらく現地では通じないでしょう。その憲法自体、英語で書かれているのではないでしょうか(ポリネシアの土着言語で「憲法」が書けるとは思えません)。沖縄が独立して琉球語を公用語とすると定めたとしても、琉球語は日本語と同族の(唯一の)言語です。日本人にまったく理解できない本来の沖縄語を回復することは無理でしょう。沖縄と八重山でも言葉は違うであろうし、現代の沖縄人の多くにも通じないものになります。結局、沖縄が独立国になっても、事実上日本語が共通語になります。

そういうわけで、私は沖縄独立に賛成なのですが、実生活で沖縄人に接することがほとんどなく、沖縄の人たちがどんな人たちなのかは知らないのです。ただ、インターネットで垣間見る沖縄人から判断すると、あまり近づきにはなりたくないタイプの人々だという印象です。
沖縄独立論の沖縄人の方々。
https://twitter.com/RyuQsis
https://twitter.com/YaraChosuke
独立は大いに結構ですが、そのあとはこっち見ないでね、という感じですね。中国との関係はアメリカ次第です。独立しなくてもアメリカが許せば沖縄は中国のものになるし、独立してもアメリカが許さなければ中国は手を出せないでしょう。

「弱者」は存在する

日本に「弱者」がいないというのは無理があり、そう言い張る人がいるとしたらゆとりがなさすぎるでしょう。「弱者」を、救うべき弱者と救わなくてもいい弱者に分ける議論をよく見かけますが、これも無理があると思います。弱者であるということは、そこに落ちた事情は非常に多様で複雑なもので、しかしとにかく、一旦そこに落ちたらその人にとって自力で這い上がることのできない苦しい境遇にある、ということです。「頑張っている人」は許せるが、というのも空論です。「努力できるのも才能」だというのはまったく正しく、生まれつき虚弱だったりすれば気力も起きないので、生まれつき頑張れない人になります。生まれつき軽い知恵遅れの人も「健常者」の中に多数います。そういう人はなかなか合理的な行動は取れないので、目的を設定して効果的に「頑張る」ことも難しいでしょう。

ニワトリに籠をかぶせるとそれだけで逃げられなくなります。ニワトリは爪で下に押さえることは知っているようですが上に引き上げるということは知らないので、その動作自体はできても籠を引き上げて外に出ることはできないのです。ニワトリは籠から這い出るということに関しては、まったく頑張ることができません。それぞれの境遇にいる人間もそれに似たところがあり、はまり込んでしまったパターンからは抜け出せないものです。

生まれた環境の違いもあります。生まれつきの素質の良し悪しは歴然とあり、自己責任とはいい切れません。私の知り合いに中学一年生で高校の数学をやっている子がいますが、彼は頭も良いのですがそれに負けないくらいカネがかかっています。小学校低学年からずっと週何度も塾に通い、小学校4年くらいから中学の数学を習っていたようです。豊かな家に生まれ、容姿もすでに良く、勝ち組路線を邁進しているように見えます。逆に、中学2年で小学校低学年の算数ができない子供も見たことがあります。健常者として学校に通っていました。また、ボンクラで怠惰で堕落した人間でも生まれた環境次第では楽な生活が送れます。

世の中には比較的強い恵まれた者と「弱者」がおり、ある人がそのどちらになるかを決めるのは、ほとんど「運」だと思います。

若者(生活保護を受ける者と受けない者): http://youtu.be/3EVsivJRhdI

日本の「貧困」

女子小学生が中年男に惨殺された事件ばかりがセンセーショナルに報じられているようで、気分が悪いので、こんにちの日本の社会問題は女子小学生が襲われることだけではない、ということに目を向けてみたいと思います。

県営住宅の家賃を滞納して立ち退きを迫られていた母子家庭の母親が、前途を悲観して13歳の娘を殺害するという事件がありました。県営住宅の部屋の明け渡しをするために裁判所の執行官が来て娘の遺体を発見した、ということです。この母親は「生活保護」を受けることは思い及ばなかったのでしょうか。2年間も県営住宅の家賃を滞納しているので、県の担当役人にもこの家庭の困窮の実情が分かりそうなものですが、明け渡しの手続きはしても生活保護等の制度の利用を勧めることはしなかったのでしょうか。

24日午前11時10分ごろ、千葉県銚子市豊里台3の県営住宅の一室で、中学2年の松谷可純(かすみ)さん(13)が布団の上で倒れているのを、部屋の明け渡しを行うために訪れた裁判所の執行官が発見し、110番通報した。銚子署員が死亡を確認し、部屋にいた母の美花容疑者(43)を殺人容疑で逮捕した。容疑を認めているという。

 逮捕容疑は同日午前9時ごろ、可純さんの首を絞めて殺害したとしている。県警によると、美花容疑者は可純さんと2人暮らし。約2年間家賃を滞納しており、同日までの立ち退きを迫られていた。「このままでは生きていけないと思った」と将来を悲観する内容の供述をしているという。

 可純さんが通う中学によると、可純さんは23日も部活動の練習試合に参加するなど元気そうだったという。教頭は「家賃の滞納などは知らなかったので驚いている」と話した。【松谷譲二、荻野公一】

娘絞殺:生活に困り 容疑で母逮捕 千葉 – 毎日新聞.

左翼から極右への転向

左翼の活動家が転向し極右になる、ということは日本では戦前からありました。日本に限らないことかもしれませんが、1930年代ころの日本では「転向」がブームのようになっていたらしく、それまで左翼で鳴らしていた者が軒並み極右に転向し、天皇を賛美しファシズムを支持する言論を熱心に展開するようになりました。共産主義と国家社会主義が実は親和性のある思想だからとか、全体主義という点では変わっていない、という理由をつけることもできるでしょう。外国にもそういう例はあるのでしょうが、「軒並みそろって」行動するところや、「極端から極端に移る」ところが、日本的です。

「ただ沈黙する」とか、とりあえず「普通」に戻る、ということはなかなか出来ないようです。言論や政治活動で、ともかくも社会的地位を築いてきた者は、それまでの方向を維持できなくなっても食べていくために言論や政治活動をやめられない人もいるでしょうが、仮に食べていけたとしても、なかなか「沈黙」はできないようです。刺激的な言論や活動で世渡りして来た者は、方向性はまったく変わっても同程度に刺激的な表現を続けざるをえないのかもしれません。

法学者では平野義太郎という人がいました。立派な業績もある学者だったので、とりあえず「参りました」と言って沈黙していても、食べるのに困るということはなかったはずです。ところが、転向しただけでなく、異様な熱心さで「大アジア主義」を裏付けるための研究に取り組み、本を出し続けます。
民族政治学の理論 (1943年) (太平洋全集 太平洋協会編)
大アジア主義の歴史的基礎 (1945年)
戦後はまたコロっと転向し、何事もなかったかのように日本共産党御用学者に戻っていきます。

こういう転向は日本では今も続いているようです。共産党を干されたあと転向し、ネトウヨのような「愛国」発言をしている人がいますが、哀れです。この人の場合には、食べていくためには何にでもしがみつかなければならないという切実な事情があるのかもしれませんが。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/41772?page=4

「反日」の必要性

朝鮮人「従軍慰安婦」の日本軍による強制連行、という物語が、事実に基づかないものであったということを朝日新聞が認めて以来(別にそれ以来というわけでもないかもしれないが)、右翼勢力は鬼の首を取ったような大はしゃぎをしているようだ。朝日がインチキな物語を作って宣伝してきたことは事実であろう。そもそも朝日新聞は、敗戦まで一貫して国家総動員体制を支持し、戦争を煽動してきた新聞で、敗戦後は、何の自己批判もなく、自分たちが特段悪かったのではない(みんなが悪かったのだから)と開き直り、あっさり転向して占領軍に協力した。このような新聞が一部の左翼利権屋(福島みずほ氏などがそれにあたるのだろう。東大法学部首席卒業とはいえこの件以前は一介の弁護士だったが、いまは2億5千万円の資産家らしい)と結びついて作り話を売り込んできたのは事実である。日本が「韓国」と戦争したこともないし、「韓国」を侵略したことがないのも事実である。

しかし、問題はそういうところではないと思う。右翼勢力の言い分では、戦後の日本人は、占領軍(米国)の「罪悪感プログラム」で洗脳されていて、みなが「東京裁判史観」を信じこんでしまっており、戦前戦中の日本は悪かったと思い込んでいるが、本当はそうではないのだ、ということである。しかし、私は、この主張は完全に誤っていると思う。

まず、戦後の日本人が本当に「洗脳」されたかどうか。確かに朝日新聞のように調子よく転向した者はおびただしくいるが、このような日和見は日本の伝統でさえあって、心からそれが正しいと信じて転向しているわけではない。もともと大部分の者は戦時中も「空気」に流されてきたにすぎないので、「空気」が変わればいつでもそれに応じて変われるのだ。日本人がそのように変わったからと言って、「洗脳」されたわけでもなければ、反省しているわけでもない。戦後も長い間、地方の公立学校の教育の現場では、戦前的で軍国主義的な教育が実際に行われてきた。戦前戦中への郷愁(実際に体験しているか否かを問わず)を口にする教育者は、戦後もたくさんいたはずだ。田舎の公立学校では、丸刈り強制や服装検査、体罰など、「軍隊式」が好まれた。戦後教育で「進歩的」だったのは、地方なら国立大学附属学校などだけであり、全体から見ればごく一部だろう。また、中小企業の経営者には、不必要に「軍隊式」を好んだり、戦前日本の「家族主義」を賛美したりする者が、戦後一貫して多かったと思う。今は、従業員を切り捨てなければならないので家族主義は流行らないだろうが、「軍隊式」や「精神主義」は健在だろう。戦後の日本人が、戦前戦中の思想と本当に縁を切り、反省したかどうか(右翼の言い方では「洗脳」されたかどうか)、まったく疑わしい。

さらに大事な点は、戦前戦中の日本は「悪くなかった」という誤りである。これは明らかに誤りである。われわれは、戦前の日本は「悪い国家」であったという事実に向き合う必要がある。朝日新聞の物語がウソだったからといって「日本が正しかった」ということにはまったくならない。「朝鮮人慰安婦強制連行」の物語が、朝日新聞や左翼利権屋のための悪意ある創作であったとしても、戦前の日本国家がそれに類する反人道的な行為をしたとしても少しも不思議ではない体質の国家であったことは、紛れもないことである。国家だけでなく、日本人自身が、そういうことを平気でやるような国民であった(ある)ことも事実である。それこそ「日本人ならわかるはず」の事実であろう。日本という国は昔から腐った国であり、日本人は卑怯でいやらしく、残忍なところのある人々である。アメリカに与えられた憲法がなかったら、あいかわらず極めて野蛮で残忍な国だったはずである。戦前日本に「良い所があった」かのような言論は、この事実を直視しようとしないものである。「戦前の日本はひどい国だった」という事実を認めたがらない人が戦後も一貫して多いのだ。右翼が「洗脳」と呼ぶアメリカによる思想教育は、ありがたいものだったが、ほとんど効果がなかったといえる。日本は悪い国だったのであり、日本人はかなり野蛮で残忍な人々である。日本人は今こそこの事実を直視し、心から受け入れる必要がある。日本にはまだまだ「反日」が足りない。朝日新聞や左翼のように薄っぺらな反日ごっこではなく、もっと芯のある「反日」が必要である。