Monthly Archives: October 2013

山本太郎「直訴」の危険性

どうしてこのように明らかな危険を、自称左翼や自称民主派は直ちに批判しないのか。まず、どう見たって「天皇の政治利用」でしょう。
http://news.tv-asahi.co.jp/news_society/articles/000015192.html

さらに、これは「いつか来た道」です。これこそまさに「軍靴の音」にほかなりません。

皇道派将校たちは、「貧しい人々の味方」のつもりでした。東北農村の貧しい農民たち、部下の兵達の身売りされる妹達に真剣に同情している。資本家や官僚を憎んでいる。

しかし彼らは「天皇陛下だけはわかってくださる」という直訴感情をもっている。天皇に訴えるような形の政治行動(直接行動)を起こす。

彼らは潰されるわけですが、十分に利用できました。「天皇」を拠り所にするエネルギーである限り、国家は国家利権者の利益のためにそれを利用し吸収することができます。

日本の群衆センチメンタリズムと「天皇」が結びつけば、ファシズムに帰するのは明らかです。戦前の「東北の飢饉と恐慌、木の皮や草の根を食べて飢えを凌ぐ農民」「身売りされる娘」が、山本太郎の場合は「福島の子どもたち」や「原発労働者」に変わっているだけです。

また、このような安価な群衆心情を引き付け、賤民的な群衆の直訴に希望を持たせている「天皇」自身の伝統的な「賤しさ」にも責任があります。つまりは、賤しい者どうしの「引き寄せの法則」ってことです。

戒能通孝著作集〈第1巻〉天皇制・ファシズム (1977年)

来日欧米人には英語で話しかけよう

日本のマスコミ等でしばしば言われていることですが、来日外国人の不満の一つに、「日本語で話しかけているのに、日本人は英語で答える」ということがあるといわれます。
しかし本当にそう思っている外国人、特に欧米人は、少数派だと考えたほうが良いです。大多数の欧米系外国人は、日本であれどこであれ、「英語ですべてこなせる」ことを期待しています。
「日本人に日本語で話しかけたのに、英語で答えてきた」という不満の真意は、多くの場合、英語は通じないだろうと思って日本語で話しかけてやったのに「変な英語で答えてきた」(しかもニヤニヤしながら)とか、あるいは、日本人が英語で答えてきたから英語が通じるのだと思ってバーっと喋ったら、まったく通じず、逃げられた、というような状況でしょう。
現に東南アジア等に大量の欧米人が遊びに来ていますが、その大部分は、「英語のみ」の旅行を基本にしています。それが可能なのが当然なのです。コンビニや喫茶店等、客商売の店で、英語が通じない、英語で道を聞けない、というのは考えられないことなのです。
私でさえ、客商売をしているにもかかわらず英語が通じないところ、英語で話そうとも聞こうともしないような現地人(東南アジアで言えば特にタイ人)の態度には、反感をもちます。
東南アジアや南アジアで欧米人ツーリストを観察していればわかりますが、欧米人は英語が通じる現地人を可愛がります。

たとえば、ゲストハウスの使用人の中に英語が上手な者が一人だけいるような場合、欧米人ツーリストはその英語のできる人を捕まえてずっと話していることが多いのです。とりとめのない話を延々としています。現地語が多少話せる欧米人の場合でも、英語を話せる人がいる以上、英語を話せない現地人と現地語だけで会話しようとはしないものです。

つまり、欧米人は、アジアの異文化の中でも、やはり「英語」を話したいのです。

欧米人がみな英語が得意なわけではなく、フランス人などにはカタコトの英語しか話せない旅行者も見受けますが、ほとんどの欧米人ツーリストが英語を話します。
また、英語圏以外出身の欧米人の場合、流暢に英語を話すように見えても、なお英語に対するコンプレックスをもっている場合があるようです。彼らは、外国人と英語が話せること、うまく通じることで、ある種の達成感を感じるらしいのです。たとえば田舎から東京に出てきた日本人が(日本語は話せるわけですが)標準語に対して複雑な感情を持つようなもので、「うまく話せないかもしれない」という不安と「だからこそ、うまく話してみたい」という願望とを同時にもつことがありえます。英語にあまり自信のない欧米人のなかには、東南アジアの中国系のほうが自分より英語が得意だと感じている人もいるかもしれません。そういう場合、英語の得意な中国系やインド系の人と英語で上手にやりとりできることで自信が持てたり、遠い異国の外国人と英語でおしゃべり出来て嬉しかったりするのでしょう。
アジアを旅行する欧米人ツーリストのほとんどすべてが、現地で英語が通じることを歓迎しており、アジアのどこにいても、英語を話したいと思っています。英語を母語としない欧米人も、英語を話したいと思っているのです。
圧倒的な多数の欧米人旅行者は、英語ですませたいと思っているのであり、「日本では日本語を話したい」という欧米人は、数から言えばごく少数の、特殊な少数派です。
この点を勘違いしてはいけないと思います。

なお、日本のホテルに来てフランス語しか話そうとしないフランス人、というのもたまにいるらしいですが、そういう人は無視して淘汰に委ねるべきでしょう。

滝川クリステルさん

私は昔から、キレイなお姉さんが好きで、自分の美意識が、「白人支配」、「白人」の文化的なヘゲモニーから自由ではないことも自覚していますが、先日YouTubeで東京オリンピックの招致宣伝のビデオを見てがっかりしました。
理由はこちらです。

日本の挨拶は「合掌」ではない! このことを外国人にはっきり伝えよう
http://kuantan-bin-ibrahim.blogspot.jp/2008/12/blog-post_11.html

胸腺に触れる

何度聞いても飽きない歌というのがありますが、たいていはしつこく聞いていると飽きます。数年前、鬼束ちひろのinfectionという曲にとり憑かれていたことがあり、きっとこれは何千回聴いても飽きないだろうと思って一日中リピートして聞いていたことがありますが、1ヶ月くらいでやはりちょっと飽きました。今でも良い曲だと思いますがあまり聴こうとは思いません。それ以来そういうことはもうやらないことにしましたが。

いま、何度聴いても決して飽きないだろうと感じるのはこれです。マクシムというロシアの女性歌手が歌う「ズナエシュ・リ・ティ」(Znaesh` Li Ty)という曲。なぜか琴線に触れる曲です。何度聴いても同じように琴線に触れます。

プロモーションビデオ

上間綾乃『PW無情』(日本字Sub)

外国語です。漢字のおかげでところどころ推測できる程度。

上間綾乃は素晴らしい歌手です。また、美しい女性です。

これをもって「沖縄賛美」に走ったりはしません。沖縄賛美のついでに日本批判、みたいなのはますます御免です。日本人の「外」賛美、「内」卑下は、とりあえず、「日本人の差別主義」の一つの表現形式とみなしたほうが良いです。

実際のところ、フィリピンやインドネシアにはまた行きたいと思いますが、沖縄に行ってみたいとは感じないのです。

日本国民としては、沖縄米軍基地には(仮に米国政府が破産したとしても)存続してもらわなければ困ります。日本の平和にとって必要だからです。

幸い「米国」と「米軍」とはまったく別の団体であるようなので、仮に米国がなくなっても米軍は存続すると思われます。

米軍は「ドイツ騎士修道会」、「刀剣騎士修道会」みたいなもので、自給自足的な「十字軍国家」として、米国崩壊後もしぶとく残るのではないか。

「敵」と「大義」がまったく消えてしまうまで、「戦争」と「植民」(その他言えないようなシノギ)を生業に、「伝道」をミッションとし、事実上の領土、権益を持つ武装集団として生き残るのではないかと思います。

日本としては、とりあえず米国に、もし米国が崩壊したら米軍(軍産複合体十字軍国家たる)に、沖縄は預けて、野蛮と闘ってくれる十字軍には献金しておく、というのが冷静な選択です。

「ウィーン愛憎」

1990年に出版された本です。私は別にウィーンに興味があるわけではないですが、多分90年代に買ってそのまま積んどくになっていたもので、最近ようやく読んでみたのですが、非常に面白い。どう面白いかはちょっと読んでみればすぐに分かります。ウィーンに興味が無い人にも、日本および日本人、あるいは西洋一般に興味があれば十分楽しめる本です。

ここではウィーンですが、欧米と日本(非欧米)とには、絶望的な「立場の違い」があります。この立場の違いは、お互い対等に理解される立場の違いではなくて、日本(非欧米)人にとっては必ず何らかの仕方で格闘しなければならない問題ですが、欧米人にとっては問題にならない、意識もされない、少なくとも格闘する必要のない違いです。その格闘に疲れ果てる日本人は多く、自殺したり精神病になる人もいますが、その現実を上手に語れる人は少ないです。日本の言論の世界にはほとんど現れません。もちろん、心の技術を上手に使って、ストレスを最小限にしてやり過ごせる人もいますが、その場合でも何らかの対応はしなければなりません。

また、西洋と格闘しなければならない日本人の立場も、ひとつではありません。格闘の仕方や苦労と、日本社会での「身分」が複雑に関係します。西洋を触媒にして、日本人社会では、「日本的な嫌らしさ」がいっそうストレートに表出するようです。東南アジアの日本人社会も怖いと思いますが、ヨーロッパの日本人社会はより高度な形で怖いものになっているのかもしれません。

日本人の中には、日本と西洋が対等だと思い込んでいて、「ヨーロッパはトルコ人やアラブ人を受け入れて問題を起こしているから、日本は同じ誤りをおかしてはいけない」などとノンキなことを言う人がいますが、思い上がりも甚だしいです。ヨーロッパとは「文明世界」という意味であり、ヨーロッパが続く限り、文明世界において日本人は「トルコ人やアラブ人」側の者でしかないのです。

アマゾンレビューより、

私も含めて海外在留経験のある日本人で、この本を読んで絶望を感じ、気恥ずかしくならないものは果たしてどの程度いるのだろうか。ほとんどが、この本にもでてくる日本人学校のある先生と変わるところがないのではないだろうか?個人主義なるものが、どれほどの意志とあくの強さ、そして精神的なスタミナを必要とするものかは、おそらくほとんどの日本人には理解不能でしょう。その現実に真正面からぶつかった著者は、書かずにはいられなかったのでしょう。自己を保って日本人として生きていくためには、どれほど”日本人”たることを止めなければいけないかのパラドックスを。この本や”アーロン収容所”が隠れた共感を呼び起こさない時代というのは果たしてくるのですかね。

「日本を愛してくれてありがとうございます」

日本にいる外国人(西洋人)や日本語が話せる外国人(西洋人)が作っているYouTubeの動画を見ると、日本を褒めている内容の動画や、「親日的」な西洋人の動画で、「日本が好きでありがとうございます」「日本を愛してくれてありがとうございます」といった日本人のコメントをよく見かけます。

こういうコメントを読むと、とても恥ずかしい感じがします。

このようなコメントをすることが恥ずかしいという感覚は、私は正常だと思いますが、彼らはそうは感じないようですね。彼らが皇族か旧皇族のような人なら別でしょうが。自分と「日本」を同一視できる人は相当な人です。

私自身も、このような動画を見るのは、外国人(西洋人)が日本をどう見ているかに関心があるからに他ならず、誤解に基づいて日本を酷評していたり人種差別的な発言を聞けば不快になります。しかし、その外国人が日本を好きだというからといって「私」を好きなわけではなく、外国人に「日本」が愛されるからといって、日本人であるという理由で「私」が愛されるわけではありません。

誰もが自分に十分な自信があるわけではなく、集団に帰属して安心する現実はありますが、あまりにも「自分がない」、「日本人であること以外に自信を持てるものがない」姿をさらけ出すような発言をすることは、恥ずかしいことだと思います。

それだけでなく、「日本を愛してくれてありがとうございます」というような発言は、愛国的とはいえず、むしろ卑屈で、「自虐的」です。

「日本はこんなにいいだろう。日本に来れてよかったね。お前は日本に住めてラッキーだ」となぜ言えないのか。

ネパールやマレーシアでさえ、自国についてこういう風に言う人がいます。本当に愛国者ならそう言うべきであり、外国人に対してそう言える国・社会にする努力をすべきでしょう。

いずれにしても、日本の最底辺近くにいて、(自分が日本の文化だと思い込んでいる)習慣にどっぷり浸かった生活をし、それに合わせてくれない外国人には「帰ったら」「来るな」などと不寛容な態度をとる一方で、「日本が好きだ」とおべんちゃらを言ってくれる外国人には「日本を愛してくれてありがとうございます」などというのは、恥ずかしいことです。
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こういう人と、一般の日本人とでは、身分も血統も「人種」も、まったく違います。
この人たちは「日本」の主人階級なのでしょうが、この人たちの「日本」と私たちの日本とは別の国だと思います。