Monthly Archives: December 2012

【初音ミク】ヨイトマケの唄

紅白で「ヨイトマケの歌」が歌われるそうです。いろんな人が歌っているのを聴き比べた結果、この版が一番良いと思いました。

「エンジニア」が「工事現場の昼休みにタバコを吹かす」のか、疑問ですが。


特選:歌カラ1000 美輪明宏 ヨイトマケの唄/別れ話

民主主義はなぜダメなのか その3

前記事で述べた通り、民主主義は本質的にすべての個人に対立し、すべての個人を多かれ少なかれ不幸にするシステムです。

しかし、そのシステムの中でも相対的に気持ちよく生きられる人たちはいます。それは、知的にすぐれたエリートたちです。

彼らは、官僚や財界人やマスコミの人間になり、愚かな大衆を誘導することができます。民主制のもとではどんな愚かな人民(愚民)でも一人一票ずつの政治力を持ちます。彼らを組織し誘導して、自分たちの既得権を大きくすることができます。そうすることで、彼らが本当に幸福になれるとも思えませんが、それなりに気持よい、ヒヒヒという感じの、楽しい思いはできるのです。自分の子供たちにもそういう立場をほぼ保障することができます。

知的に優れていることも言うまでもなく尊重すべき立派な個性であり、これはこれで良いと思いますが、知的に優れている人ばかりが力を持つと、他の面で優れている人は、抑圧とまでは言わなくても、埋もれて目立たなくなります。

たとえば、私は「精神的に優れた人びと」というものが存在すると思いますが、知的に優れている人が精神的にも優れているのなら良いですが、そうでないことも多いとすると、多くの精神的にすぐれた人が、彼らによって目立たない所に追いやられることになると思います。そうなると、社会に、「精神的に優れていること」を尊重しない風潮が定着してしまうと思います。

「精神的に優れている」というのも、もって生まれた素質であって、努力とか、読書とかお説教で身につくものではないと思います。また、精神的に優れた人は、目立とうとしないものだと思います。ペラペラ喋ったり、ネットで能書きを垂れたりもしない。

「精神的に優れている」などということはどうでもいいという考え方も当然あって良いですが、これは一例に過ぎません。

民主主義のもとでは、「愚民を組織し誘導する手管のある者」が力を持ち、そういうタイプの人間中心の社会になります。思想的にも、そのような手管の能力を人間の「徳」(すぐれた性質)の中心におく考え方が主流になるはずです。

私は、各個人がそれぞれ持って生まれた分に従って自由に生きることに価値をおくので、このように一つの能力がすべての基準になってしまうような社会は望ましくないと思っています。各個人はこのような基準に対しては、自由な行動によって反抗して良いと思います。

ご自分の周囲を見れば分かる通り、大衆のほとんどは愚かです。生まれつき愚かな人間が多く、生まれつきの素質であるので、彼らは一生愚かです。

愚か者が自分だけ愚かしく生きる分には良いのですが、知能のすぐれた人々が、ちょっとした快楽を得るために、愚か者の愚かさにつけこんで、組織・誘導し、愚か者の欲望を国家意思にまで仕立てあげて、結果的にすべての人を害することになるというのが民主政治です。

「政治」は個人の自由を制限するものであるので、どんな場合でも「政治」はできる限り縮小されたほうがよいのですが、民主主義は政治を増大させます。行政をコントロールすると言いながら、結果的には、公的部門全体を肥大させ、さらに個人の自由を抑圧することになります。

「政治の影」の薄い社会こそ、個人にとって良い社会だと思います。民主主義も福祉行政も要りません。それぞれの天分や目的を見つめて、自分の自由を守るべきです。

貧者は、なにより諸個人の慈善によって救済されるべきなのです。ところが、日本では「慈善の自由」も大きく制限されていると思います。私財で慈善活動をしようとする個人がいたとしても、役人が介入したり、宗教団体が絡んできたり、土壌的な部分での嫌がらせにあったりして、必ず潰されると思います。

民主主義も福祉行政も不要であるということは、できるだけ多くの人々がよく考えて頭に入れるべきことだと思います。

民主主義はなぜダメなのか その2

人間の足は非常に大事なものであり、足には尊厳もあります。口も大事なもので、尊厳もあります。しかしいくら毎日重圧をかけられているといっても、踵の皮膚が、唇の皮膚と同じ扱いを要求することはありません。踵の細胞の数が多いからといって、唇に踵の重圧を要求することはありません。

バカバカしい話かと思うでしょうが、民主主義にはそれに似たところがあると思います。つまり、踵の皮膚が唇の権利を要求するようなところです。

人間は生まれながら、一人一人まったく異なった個性を持ち、まったく異なった感じ方をし、それぞれ独自の意思を持ち、思想を持つように出来ています。

それなのに民主主義は、一般意志とか「民意」という形で、諸個人の意志を一つの意思にまとめ、あるいは擬制し、さらにその意思に権力を担わせて、多様な個人を抑圧しあるいは排除しようとします。民主主義では「民意」を決めることが不可避ですが、その民意は(良くても)多数の意思であり、少数派は抑圧され排除されます。実際は、どのような意思決定方法をとったとしても、多数の意思と「みなされる」、擬制された意思であり、民主主義によって正当化される権力は常に、すべての個人に対立します。

人間はみな、生まれながらに、本当に「さまざま」だと思います。小泉元首相の「人生いろいろ」は正しいです。

労働に向いている人(労働が楽しい人)、人に奉仕することに向いている人、人を指導することに向いている人、知能の高い人、頭脳労働に向いている人、芸術的な才能のある人、創造的な仕事に向いている人、指導者に向いている人、権力を行使する仕事に向いている人、奉仕される立場に向いている人。

誰もが奉仕されることに向いているのではありません。多くの日本人は奉仕されることに不向きです。外国のホテルでベルボーイをスマートに使いこなせる(チップもスマートにやれる)日本人は少ないです。ガイドやポーターをケジメをつけながら従わせることの出来る日本人も少ない。もちろんこれは、文化的な要因がありますが、生まれながらに、「奉仕される立場」にいることに向いている人も、確かにいるようです。同様に、「奉仕する立場」に向いている人もいます。

喋ることに向いている人、暴力を振るうことに向いている人、威張ることがとにかく好きでそれさえ出来れば多少貧乏でもかまわないという人・・・・。

また、すぐれた学者や芸術家は、貧乏な家からは滅多に出てこないものです。不思議な事ですが、たいていはそれなりに豊かな家や、血筋の良い家に生まれることが多いと思います。先祖をたどると武士以上の家柄の方が多いようです。不公平なようですが事実だと思います。(これは神様の御心としか言いようが無いです)。

いろいろな意味で、「生まれ」の要因が、人間にとっては大きいのです。

人間は「白い板」だ、というのは違います。人間にはそれぞれ持って生まれた分があり、それぞれ人とはまったく違う幸福(の可能性)があります。

しかし、「大衆」というものは、ほとんどが愚かで、心がけも悪く、醜悪なものです。

大衆は、十分なチャンスと援助を与えられたとしても、多くは自分にとって不幸になる選択をしてしまいます。つまり、自分にとって何が本当に幸福か、まったくわかっていないからですが、大衆はそもそもそんなことは考えたこともないからです。

一人一人、幸福になる道筋がまったく違い、その道筋はそれぞれが自分で見つけるしかないにもかかわらず、ある方向こそ幸福への道だと決めつけて、あるいは、そういう一定の方向が見出されるはずだと考えて、「民意」をまとめようとするのが、民主主義です。

だから、民主主義は、すべての人を多かれ少なかれ不幸にします。(同じ理由から、私は「功利主義」はまったく理解できません)。

民主主義に取り柄があるとすれば、愚かな群衆である大衆が凶暴化しないための安全弁という、極めて消極的な役割だけだと思います。どんな民主主義にも、本質的にはこれ以上の価値はありません。

民主主義はなぜダメなのか その1

民主主義はなぜダメなのかということについて、私もずっと考えてきました。これからも考えていくつもりです。

日本国憲法には民主主義という言葉は出て来ません。国民主権と呼ばれていますが、この場合の主権というのは国家の主権という場合とは違い、国家内での最高意思の所在はどこかということであり、民主主義というのと実質的には同じ事です。

日本国憲法には、「信託」という言葉が2回出てくると思いますが、「信託」という概念は英米法に固有のものです。一つは97条です。いわく「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」。つまり、参政権を含むすべての権利は、どこか普遍的なところから日本国民に「信託」されたものだということです。もう一つは前文で、「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。」とあります。日本国民が(どこか普遍的なところから)信託された権利によって、さらに為政者に信託し、政治を行わせるということです。だから、国民は為政者への勝手な信託はできないはずです。

まぁ、クリスマスイブに一人で街に出て、デパート、レストラン、喫茶店などに入って周囲を眺めたりしてひとときを過ごしてみれば、民主主義がいかにケシカランものであるかは、わかる人にはわかるでしょう。

「法の支配」

日本では、立派な知識人にも、「法の支配」とは「法律を遵守させること」だと思っている方がいますが、「法の支配」は、「みんなが法律を守ること」とはちょっと違います。

英米には「法の支配」(rule of law)しかないので、すべて法の支配であり、法の支配の中の二つのアプローチというような議論がなされます。

日本の場合は、「法の支配」という概念の他に、「法治国家」(ないし「法治主義」)という概念が行われています。後者(法治国家)のほうが好んで使われますが、英米の「法の支配」とはまったく異なる意味で使われることが多いようです。

以前、免許証の書き換えの講習で、講師の警察官が「日本は法治国家ですので・・・」と言っていましたが、これはもちろん「法の支配」の意味ではありません。

「法治国家」の概念は明治時代にドイツから日本に輸入され、戦後になってアメリカから「法の支配」が輸入されました。

だから、日本であえて「法の支配」という場合には、戦前からある法治国家(法治主義)概念には欠けているところに注意しなければ意味がありません。

そのような意味で、「法の支配」という場合、(その「法」を「コモン・ロー」と見るのであれ「自然法」と見るのであれ)、「議会制定法の支配」という意味ではありません。

「法の支配」というときの「法」は、議会制定法を超えるものです。その意味で、「法の支配」は議会制民主主義に優越します。

「法の支配のイデオローグ」といえば、エドワード・クック(Edward Coke、Cokeと書いてクックと読むらしいですが、コークとも)というイギリスの人が有名です。

クックは、「コモン・ローとコモン・ロー裁判所の優位」を主張した人ですが、何に対しての優位かということが重要です。

まずは国王大権に対する優位であり、「古き良き法」であるコモン・ローによって保障される「イギリス人の権利」は、国王大権を制約するということです。

それだけでなく、クックは、民事訴訟裁判所首席裁判官として、議会制定法を「コモン・ロー」に反するとして無効とする判決を出しています。(1610年、ボナム医師事件)。

このボナム医師事件で、クックらは次のように判示しています。

in many cases, the common law will control Acts of Parliament, and sometimes adjudge them to be utterly void; for when an act of Parliament is against common right and reason, or repugnant, or impossible to be performed, the common law will control it, and adjudge such an Act to be void

この判決は、アメリカ独立革命のきっかけになった印紙法の批判で、マサチューセッツ州議会によって援用されているということです。

When the Stamp Act of 1765 was declared invalid by the Massachusetts Assembly, the rationale was that it was “against Magna Charta and the natural rights of Englishmen, and therefore, according to the Lord Coke, null and void

つまり、イギリスの議会が法律を決めてアメリカ植民地に課税していたわけですが、それは議会が決めた法律であっても「マグナカルタおよびイギリス人の自然権に反し、それゆえに、クック卿によれば無効である」としています。(法律英語では同じ意味の言葉を二つ並べることがよくあります)。

アメリカ独立のキッカケは「代表なければ課税なし」だとよくいわれますが、それ以上に、「イギリス議会のアメリカ植民地への仕打ちは、コモン・ロー違反である、イギリス人の古来の権利に反する」というものだったことに注意すべきだと思います。

アメリカ諸州では独立後も、厳格な権力の分立によって議会の権力を押さえつけようとする傾向が見られます。(たとえばマサチューセッツ憲法では、知事が議会の立法に対する拒否権を持ち、その場合には、両院の3分の2の賛成でようやく成立)。

「法の支配」の「法」を「自然法」と見るとしても、例えば、ロックの場合、人の生命・自由・財産への権利は自然権であり(ロックの場合は自然法と自然権は対立せず、自然法から自然権が生ずる)、立法者は自然法によって制約されていて、自然法に反する法律は無効と考えています。

そういうわけで、何れにしても、「法の支配」は、「国会の決めた法律の支配」ということではありません。国家の法律を守れという意味なら、(少なくとも日本では)「法治国家」というべきでしょう。

日本に言論の自由はない

日本に、「言論の自由」があると勘違いしている人を見かけますが、日本に「言論の自由」は、かつてあったことがないし、いまもありません。

だから、日本で「これは言論弾圧だ!」と叫んで抗議するのは、「これは共産主義の理念に反する!」と叫んで抗議しているのと同じようなもので、滑稽なだけです。つまり、日本は「共産主義国」でないように、「言論の自由の国」でもないということ。

今はどうか知りませんが、かつては朝日新聞などが、「見る聞く話すがどうのこうの」とか、大げさに書き立て、’「言論の自由」はいま危機にあるが、自分たちこそが「言論の自由」の最前線で闘っているのだ’と強調していたと思います。

それを見る読者は、朝日がそういうことを書き立てているうちは言論の自由はかろうじて存在しているのだ、と思って、それなりに安心したのだと思います。

本当は、日本に「言論の自由」なんて、その時もなかったし、その前もなかったのです。

言論機関が「言論の自由はいま危機にある」と書くのは、とりあえずいまは言論の自由があり、自分たちはそれを稼業にしているのだ、という宣伝に過ぎません。

戦前戦中、日本には言論の自由はまったくなかったし、必要でさえありませんでした。階級闘争を呼びかける知識人はいても、「言論の自由」を要求する国民は皆無だったはずです。

アメリカ軍に占領されて、「言論の自由」を与えられ、群衆は占領軍に「天皇を批判しなさい」と督励されて天皇批判をしたりしたのです。

農地改革で何の苦労もなく土地を手に入れた元小作人たちが、占領軍のお墨付きを得て、みんな「共産党」になって、旧家を略奪し、つるし上げました。

(この群衆百姓「共産党」が、いまの自民党や農協の前身です)。

しかし、「言論の自由」は、制度ではありません。自由です。「自由に言論する者」がいないなら、言論の自由など存在しません。

日本は、かなり怖い国だと認識したほうが良いと思います。個人はかなり厳しく、国家(警察)によって監視されているようです。特別な政治活動をしていない個人についても、特に人間関係について調べられるだけの情報は蓄積してるようです。とりあえず個人に関するデータを蓄積しておくことは簡単なお仕事であり、人々の人間関係の網の目がつかめていれば、いろいろな捜査にもきっと役に立つでしょう。

日本のインターネットにはあらゆる意見が流通しているように見えますが、好きなことを言えるのは匿名だからです。匿名の言論はわりと放任されています。

匿名の言論が放任されるのは、影響力を持たないからです。匿名の言論は、垂れ流しているだけで、「人を結びつける力」は殆どありません。

特に日本人は、言論自体の「思想内容」に関心はなく、「誰がそれを書いているのか」、「どんな人が書いているのか」にだけ関心をもつ傾向があります。書いている人の姿が見えない言論には、殆どの日本人は関心を持ちません。

匿名ブログで「天皇を処刑せよ」と書いても何の弾圧も受けないのは、身元を突き止められないからでなく(当局がその気になればすぐできることです)、そんな言論には何の力もないからです。

これに対して、実名の言論は、直ちに人を結びつける力があります。

広場や街頭で演説するのでも、聴衆が集まれば「集会」になります。聴衆同士が知り合いになって継続的に連絡し合うようになれば「結社」です。

日本国家が一番警戒し、厳重に監視するのは、人民の間に生まれるこの「結社」であり、それに直結する実名の言論です。

街頭でギターの弾き語りをする人がいますが、それだけではヤクザも警察も特に妨害しないそうです。ところが、「演歌」をやると、たちまちヤクザがやってきて因縁をつけるそうです。(ネットゲリラより)

なぜ演歌だとヤクザが来るのかは、いろいろな事情もあるのでしょうが、根本的な理由は、「演歌」は日本人の情念に働きかけ、情念レベルで「人を結びつける」可能性があるからだと思います。そして、情念レベルでの人々の結びつきはヤクザの領分に属するのであり、一種の縄張り荒らしになるのでしょう。第一のヤクザ(役座)は言うまでもなく日本国家です。

インターネットでも、実名で言論し、人を集めているような人々は、すでに「結社」を始めているので、みな当局に厳重に監視されていると思います。

そういうところに集まる人々も当然、簡単に調べられるので、完全に把握されているでしょう。もちろん、監視だけでなく、ある程度大きな動きになってくれば、要員を送り込まれたりしてコントロールもされるはずです。

「言論の自由」は結局、「結社の自由」です。一般の日本人が、「結社」ということに関してどういう感覚を持ち、どういう態度をとっているか、集まりができた時にそこで一人一人がどういうふうに振る舞っているか、を考えれば、日本の「言論の自由」の実態もわかると思います。

日本に「言論の自由」などはないのであり、言論の自由があると思うのが間違いです。

身近な人と話していても「空気を読む」ことに専念し「話の腰を折る」ことをもっとも怖れるような人々が作り上げている国に、「言論の自由」など存在するはずがないでしょう。