Monthly Archives: July 2012

西洋思想を拒否する人は、着物で生活すべき

インターネットには西洋思想ないし西洋文明を否定しようとする日本人の言論が目立ちますが、彼らの日常の生活様式はどんなものでしょう。西洋思想を否定する人は、少なくとも着物で生活すべきです。そんなこともできないなら、西洋文明を心から受け入れる努力をすべきです。キリスト教にも十分な敬意を払うべきです。

われわれの周りにある便利なものはほとんど西洋由来のものです。靴からコンピュータまで、西洋の文物ばかりです。これらの多くは西洋の歴史的な生活、西洋文明、西洋思想と不可分です。

日本人の多くは西洋文明の成果を享受しながら、その背景にある歴史や思想を顧慮しません。利便だけは享受しながらその背後にある精神を全く尊重しないのは、恩知らずな態度と言わなければなりません。

日本人のほとんどが西洋に対して恩知らずになっており、いま日本がうまくいってないのは恩知らずにバチが当たっているからだといってもいいくらいではないでしょうか。

西洋が苦心して作り出したものに少しだけ改良を加えて、この微妙な改良こそオリジナリティあふれるもので日本文化だ、などと開き直ってきたのが日本人ですが、そんな態度でいれば軽蔑されるのは当然です。

モノには魂はありませんが、思想はあります。モノの利便性だけをエキスプロイトして、思想は捨ててしまうということを繰り返していれば、祟られるかも知れません。

原発にしても、管理者、技術者、作業員が、その思想を十分に理解し、十分な愛情を注いで扱っていないから、日本では故障するのではないでしょうか。日本人がもし、デモクリトス以来の原子理論への敬意や科学の進歩に対する信念を抱いていたら、深刻な原発事故は起きなかったでしょう。

日本人は、過去への執着を捨て、西洋思想をその矛盾とともに全面的に受け入れるべきだと思います。

どうしてもそれをしたくない人は、便利な西洋の文物の恩恵も拒否すべきです。コンピュータは捨て、着物を着て生活すべきです。

日本で「保守的な自由主義」は可能なのか?

別に難しいことを考えているわけではなく、以前から疑問に思っていることです。

欧米はいざしらず、日本で、「保守」と「自由」が両立しうるのかということです。

自由を尊重する考え方には、大きく分けて二つの流派(?)があるといわれます。一つは、個人の自由の倫理的な価値(自由は自然権であるとか)を自由を尊重しなければいけない根拠にするもの。もう一つは、政府が社会に「この先」介入しないことを何よりも重視し、介入しないことによって結局は「うまくいく」という考え方。

後者の場合、現存の社会に過去の権力や実力が作り出した伝統的な特権や不条理や抑圧が存在しているとしても、それは「よし」として、あえて手を加えて是正はしないということです。介入しないで具体的な社会の自律に任せておくことで結局は「よくなる」、幸福も自由も増大する、少なくとも介入するよりはマシなことになる、という考え方です。その意味で、後者の自由主義は「保守」です。

私は知識がないのでわかりませんが、イギリスのようにもともと社会に個人の「自由」を尊重する伝統のある国なら、国家が社会に口を出さず、社会を伝統のままに任せておくことが、経済のために良いだけでなく、結局は個人の「自由」を保障することにもなるのでしょう。そのような社会では、「保守」と「自由」は両立し、上の後者の自由主義が有効に機能するのだろうと思います。

しかし、日本のように、もともと社会に個人の自由を尊重する伝統が全くない国で、伝統を尊重し、社会を伝統のままに任せていたら、どうなるでしょうか。個人に自由は認められず、大部分の個人はその辺の有力者の奴隷になるしかないでしょう。つまり、越後屋と御代官様がやりたい放題しているのを奉行所が黙って見ているというだけということになります。

だから、日本では「保守」と「自由」はそもそも両立しないと思います。「保守」だといったら、「個人の自由」の敵ということになります。もちろん、どんな越後屋でも個人は個人なのでどこかの個人を尊重することにはなりますが、あまねく個人の「自由」を増大することにはなりません。「自由」の理念に資することもありません。もともと「自由」の伝統のない社会を「放任」していても、自由は生まれないと思います。

だからといって、私は、国家が社会に介入することが日本では重要だと思っているわけではありません。越後屋と御代官様が腐っている場合には、奉行所も同じように腐っているので、介入して「よくなる」ことはありません。(水戸黄門のような時代劇は有害です)。

自由の伝統のない日本において、本当に自由を尊重するつもりがあるなら、倫理的な立場から出発するほかないと思います。つまり、自由を自然権と考える信念を持ち、それに反するものを壊していくことです。

日本で「個人の自由」を本当に実現するためには、伝統社会も国家も「破壊する」ほかはないと思います。

「縄文人」を「日本人」と見做すのは誤り

琉球大学の教授が2005年に行った調査によると、沖縄県民の4割は「私は日本人ではない」という意識を持っているそうです。

学校で習う「日本の歴史」を思い出せば、沖縄県民がそういう感情をもつのはごく自然だと思います。琉球処分までの「日本史」は、沖縄人にとってはほとんど外国の歴史、隣国の歴史を自分の国の歴史として習わされる屈辱的な教科だと想像します。

沖縄人は日本人ではないという主張に対しては、「沖縄とアイヌは縄文人の直接の子孫」だからという理由をあげて、沖縄人は日本人であり、したがって沖縄は日本である、とする右翼的日本人による反論が必ず行われます。

この掲示板の書き込みにも、「父系遺伝子では本州人より日本人なのが沖縄人、大陸人にはない遺伝子 」ということを、沖縄人は日本人だという根拠にしようするものが見られます。

まず、「縄文人」が現在の中国や朝鮮半島の人間と血縁がなかったかどうかはどうでもいいことです。このことは沖縄人を日本人とみなすべきかどうか、沖縄人の「自分たちは日本人ではない」という意識が正当なものかどうかとは関係がありません。

そして、仮に、沖縄人とアイヌが「縄文人」の血を濃く受け継いでいるとして、日本国民の圧倒的な多数を占める本土日本人のほうは渡来人との混血が進んでいて「縄文人」の血を「ほんの僅かしか受け継いでいない」とすれば、(おそらくそれが事実でしょうが)、「縄文人の血をほんのちょっとだけ受け継いでいる種族」を「日本人」と定義すべきことになるでしょう。そうだとすれば、「縄文人」の血を「たくさん受け継ぎ過ぎている」アイヌや沖縄人は「日本人」とはいえないということになるはずです。

タタール(ロシアではモンゴロイド系遊牧民族の漠然とした総称のようですが)の血を少し受け継いでいるのがロシア人の特徴だとしても、純粋タタール人(モンゴロイド丸出し人)がロシア人の間に入って行ったら「ロシア人」としては扱われないでしょう。沖縄人やアイヌが日本人でないのもそれと同じことです。

「縄文人」の時代には「日本」という観念はなかったのであり、「日本人」も存在しませんでした。

「縄文人」の独特の遺伝子を僅かに受け継いでいるのが日本人の特徴だとしても、「縄文人=日本人」なのではありません。

だから、その「縄文人」の遺伝子を濃く受け継いでいるからといって、アイヌや沖縄人を「日本人」だとすることはできません。

そもそも、血統によって「日本人」かどうかを決めつけようとすることが、言うまでもなく間違っています。大部分の日本人は「縄文人」の遺伝子よりも中国人(渡来人)の遺伝子をタップリと継承しているわけであり、どの国に帰するかを遺伝子で決めて良いなら、日本人は(遺伝子の多数決で)中国人になり、日本は中国の一部になります。

「進歩」を信じることが大事だと思う

いまの社会、特に日本の社会は、(おそらく評価する人の思想信条を問わず)、気持ちのよい晴れやかな希望に満ちたところではなくなっているのは確かでしょう。

そのためか、ネットでも「昔はよかった」式の話がよく語られるようです。「こんな社会はぶっ壊れる。ぶっ壊れるべき」という終末待望言論とセットになっていることもあります。

「昭和時代は良かった」、「昭和30年代までは良かった」、「戦前の社会は良かった」、「江戸時代は素晴らしかった」など。江戸時代より前になるとイメージもつかめないせいか「夢物語」が語られることもあまりないようですが、江戸時代はもとより、戦前の日本社会の記憶のある人も少なくなっており、「昭和30年代」も団塊世代が少年時代の記憶としてかすかに覚えているくらいではないでしょうか。

私は、誰が過去についてどんなパラダイスを描いて見せようと、昔よりはいまのほうが良くなっていると信じています。江戸時代よりも今の日本のほうが、悪いなりに幾らかはマシになっているはずだと思います。

人間個人にしても、自分の若い時代と客観的に比較してみれば、今の自分のほうがいくらかマシになっていると感じるのではないでしょうか。個々の才能やヒラメキなどが衰えているとしても、「知恵」は増していると感じているはずです。ある程度生きた人なら、10代20代の頃よりは現在のほうが賢くなっていると感じるのが普通でしょう。

個人が年齢を重ねるごとに増していく「知恵」はどこから来ているのか。別に神秘的な理由があるわけではなく、一つ一つの経験・知識の積み重ねだと思います。それこそ「量から質への転化」(量の変化がある程度に達したところで、質の変化へと転化する)が繰り返されることにより、知恵が結晶していくのでしょう。

社会にも記憶があるならば(この記憶と社会との関係が「民族」とか「国民」の実質だと思いますが)、経験による知識が蓄積されて、「常識」「常識水準」「良識」が形成され、それなりの民度として結晶していくはずだと思います。

だから基本的には、江戸時代の日本人・日本社会よりは、明治時代の日本人・日本社会のほうがマシであり、現代の日本人・日本社会の方がマシだと思います。(江戸時代にも「日本人」意識は存在したようなので、比較可能だと思います)。そして、将来はもっとマシになっていくはずです。

ただ、どれだけ飛躍できるかは今のわれわれの心がけにかかっているのでしょう。

そこで大事なのは、原発だとか税金だとか政局だとかではなく、意識の根本を意識的に変えていくような努力だと私は思います。

飛躍するようですが、日本人の宇宙観とか宗教観を根本から変革しなければ、今の日本の「嫌な感じ」を克服することはできないと思います。

今の「嫌な感じ」は、客観的に昔より悪くなっているのではなく、昔からあった悪いところが自覚されてきているだけです。

今の日本の閉塞感、「嫌な感じ」は、”「根本的な物の見方」を変えよ。変えなければどうしようもないよ。”という要請だと思います。ただ、誰しも自分の「根本的な物の見方」は変えたくないので、それは嫌だという。しかし、それを変えない限り「昔からあったすごく悪い所」が変わらないことが自覚されてきている状況。そのジレンマが今の「嫌な感じ」の正体でしょう。

「根本的な物の見方の変革」の要請とは、飛躍するようですが(おそらく多くの人は賛成しないでしょうが)、日本人の多神教的な物の見方、伝統的になんとなく受け入れている自然崇拝、偶像崇拝、太陽崇拝などの、淫らな精神的習慣をを断固として捨て去れ、という(まさにこれらのものを超えた力からくる)要請だと私は感じます。

天皇は上述の「古い淫らな要素」の司祭であり、天皇をスクラップしなければならない理由もここにあります。

いま日本人が変わるべき方向は、「唯一神論または唯物論」を受け入れることです。「古い淫らな要素」を捨てて、「唯物論と唯一神論の対立」という、より高いステージに登ることだと思います。

残念なのは、いま盛んに世の中を変えようと活動している人々が、そのいずれにも属さず、彼らの依って立つ足場をよく見れば、事実上、自然崇拝だったりオカルトだったり、「自然」「大地」「地球」「太陽」などの被造物の偶像化にすぎないことです。言うまでもないことですが、太陽も月も地球も、唯一神論からは、造物主の創造したモノにすぎません。唯物論からは、存在の本質である物質の運動の展開にすぎないでしょう。

太陽や地球やその他の星や自然を「神」だとする教えは、決定的に邪教です。

日本および日本人に今必要なことは、宇宙観を問いなおすことであり、多神教、偶像崇拝、被造物崇拝、自然崇拝などからシッカリと足を洗い、同時に天皇制を終わらせることです。

ドストエフスキー「未成年」

これは不思議ちゃん。こんな難しい小説は読んだことがない。たぶん世の中に他にないのでは?(20世紀の「難しそうな」小説なんか薄っぺらで問題にならず)。

何度も立ち返りながら時間をかけて読んでも結局よくわからない。だからといって途中で捨てる気にもならないという「何か」はある。

これを読んでピンと来るという人がいたら天才じゃないのかな。

工藤精一郎の訳文もちょっと「?」なところがある。「頭に来る」と連発するが、頭に来るといえば頭にくることだが、「頭に浮かぶ」くらいの意味で使っている。

新潮文庫版で読む場合に注意すべきことは、最後についている佐藤優の解説を読まないこと

難しい小説とはいえ、ある読後感は必ず残す。それがまあ、小説から得られるカテというものであり、小説を読む価値でもある。

ところが佐藤優の「解説」はそれをぶち壊しにする。

佐藤優が人生で失敗するのは頭が悪いからだと思う。ロシア語の外務省通訳になれるほど語学(言葉)の素質があるにもかかわらず、同志社しか行けず、そのうえクリスチャンだなんて、相当地頭(じあたま)の悪いヤツなのでは?頭の悪いヤツはどうでもいいことにすぐ感動し、どうでもいいことを重大なことのようにクダクダしく書き立てる。

佐藤優の頭では、「僕はロスチャイルドになる。そして自分に引きこもる」というアルカージイの「理想」が(それが「理想」というにふさわしいものであることが)理解できない。これでは救いようがない。

「寄らば大樹の陰」


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日本乃至日本社会を少しでも良い国、良い社会にしたいなら、日本人の「寄らば大樹の陰」という思想(というか志向性)を、徹底的に洗い落とす必要があると思います。

「寄らば大樹の陰」という志向は、日本人が好む日本人論においても昔から批判的に言及されていたはずですが、案外マトモな批判がないものです。

これは現在も日本社会のいたるところに見られ、合理的な改革改善を妨げているだけでなく、この社会を「嫌らしい」ものにし、日本人の姿を(容姿を超えて)醜くしているものです。

「寄らば大樹の陰」とは、「大樹」すなわち「より勢力の大きな者」につくという事大主義ですが、「大樹」は客観的には「小樹」であることも多く、そこで実際に求められていることは、何かの「一員である」ことに安心を見出そうとすることであり、また、「ボス猿」の下に従属することによって自分で考え判断して決断し行為の結果に自己責任を負うという「重圧」から解放されて安心を得ようということです。

つまり「寄らば大樹の陰」の目的は、「安心」であり「安堵」であるといえます。「安堵」できれば、その木が客観的に大樹であるかどうかは、日本人にとってはどうでも良いのです。

「ボス猿」の下につくという時、その「ボス猿」が客観的に見て「尊敬すべき者かどうか」は実はどうでもよく、自分が尊敬しているかさえ問題ではない。ボス猿の下にいることで、(小)集団の「一員」になり自分の居場所が得られ、ボス猿に唱和して思考停止し、(自分で考え判断する責任を免れ)、「安堵」できれば良いのでしょう。

ボス猿に異議を唱える者が出てくればみんなで叩いて追い出す、ボス猿の敵を攻撃する芝居をボス猿の前でしてみせる。これらは、ボス猿への同意や尊敬からというよりは、ボス猿の礼賛という点で集団が「一致」して(思考停止して)いることの表明であり、そのことが群れの構成員たちにとってはボス猿そのもの以上に重要なのです。構成員の皆が「一致」して思考停止していることで、少なくとも仲間から攻撃を受ける危険がなくなり、「安堵」できるからです。

大樹の陰に依るということは、「個人」を捨てて「集団」を得る、ということであり、「思考停止」を得て「安堵」するということです。

多くの人々が「寄らば大樹の陰」を志向する日本の風土が、日本社会を「嫌らしい」「醜い」社会にしているばかりでなく、国力をも削いでいるように私には思えますが、そういうふうに思わない(むしろそれを日本の美風だとさえ思う)人々が現実には多いようです。

日本の集団は、掲げている標語が「反原発」であろうと原発推進であろうと、リーダーはそれなりの人たちかもしれませんが、そこに群れ集う人々は「個人」を捨て、「思考停止」を得て、「安堵」することを求めてやってきている人々ばかりです。

「安心」「安堵」は、日本では無条件に是とされますが、このことも疑ってみるべきです。

「安堵」を求める心が、人間をダメにし、肥大させ、醜悪にしている面が大きいのではないか?少なくとも、思考や判断を停止させ人間を怠惰にさせる面があります。安堵できる集団内で「波風を立てる」者は排除しなければならなず、個人の自由、自由な言論を抑圧します。

日本人の「寄らば大樹の陰」志向の頂点にあるのが天皇であることは言うまでもありません。「寄らば大樹」システムこそが天皇制だといっても間違いではないと思います。

生命と「自己」

巷では群衆が「命を守れ」と喚いているようなので、引き続き「命」について、私なりに考えてみたいと思います。

「生命」という自然現象が他の自然現象と異なるのはどういうところかと考えてみると、(専門家の説明は参照していないので素人考えですが)、「自己」というシステムを持っているところではないかと思います。

生物は、「自己」を認識し、自己と非自己を区別し、非自己を排除したり攻撃したり分解したり摂取したりし、「自己」を複製し、増殖しようとします。

だから、「命」の思想、生命礼賛思想というのは、「自己」を認識する存在が、「他」を排除、攻撃、分解、摂取しつつ、できる限り成長増大し、個体の成長増大が限界に達したときには自己を複製し、繁殖する(自己に似た「自己」を増やしていく)という働き、そういう働きの力強さ、を賛美する思想ということになります。

この場合の「自己」は、我々が「個人の自由」とか「個人の尊重」という時の、個人や個とは同じなのかどうか。

自己を非自己と区別するという点では同じですが、「生命」に於いては、その「自己」が運動すべき方向は一つに決まっています。つまり、自己の増殖、繁殖だけです。この方向に逆らう場合は「反生命」ということになります。その意味で、「生命」の思想は絶対主義です。あらかじめ一つの方向が与えられていて、それに反する者は「生命」から脱落していきます。その方向性は、あまりにも「あらかじめ」すぎるので、まるで自由であるかのように受け入れられていますが、自由ではありません。

他方、我々が「個人の自由」というときの「個人」は、自己ではありますが、「自由な個人」「自由な個」です。自由を与えられていると考えられる、自由な意志をもちうる個人です。

つまり、最初に「個人」という事実があるのではなく、まず「自由」という理念があり、自由な意志という要求があり、自由な意志の担い手となりうる統合の主体として、「人格的な自律」を可能にする器(個人)が選ばれるのです。

「生命」は、自己から始まり自己に終始しますが、人権思想に出てくる「個人」は、自由の理念の要請によって生ずる人格的自律の存在として認められるものです。

我々が人権思想を否定しないつもりなら、生命賛美(「命を守れ」的スローガン)はまずい、ということがわかるのではないかと思います。

世界の大部分の地域では、この世は「善であり全能である造物主」によって作られ、維持されていると考えられています。

それではなぜ「悪」が存在するのか、というのは昔からの難問です。

何が悪で何が善かわからないとはいえ、世の中すべて善人と善行ばかりと考えている人はおらず、確かに悪が存在していると考えられます。

「全く善で全能な造物主」が作り維持している世界になぜ「悪」がありうるのか。善から悪が生じるのはおかしいではないか、なぜ善である造物主が悪を作り出しているのか。

それは人間が試されているからであり、人間が自由意志で善を選び実践するチャンスを与えられているのだ。それこそまさに造物主が人間にのみ垂れてくださった慈悲である。というのが、おおよそ模範解答かと思います。

人間未満の事象には善悪は問題にならず、自由もありません。人間だけが自由の主体となることができ、人格的自律の存在たり得るので、人間の個人は貴い、というのが、人権思想の基本だと思います。ここでも貴いのは「命」ではなく「個人」です。