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「被曝しながら原発で働く作業員の存在は絶対に必要だが、自分は絶対に原発では働きたくない」 このような【身勝手】を容認することこそ日本国憲法の本義であり、基本的人権の真髄である

少数の奇特な人は別として、大部分の人は自ら原発の作業をしたいとは思わないだろう。経済的な余裕がある限り、すすんで原発で働くようなことはしない。むしろ、放射能を放出し続ける原発からは離れて暮らすことを考える。

しかし、一方で、そのわれわれが住むこの社会を維持していくためには原発を何とか押さえ込む必要があり、そのためには、この先数ヶ月か数年か数十年かはともかく、福島原発の現場で健康を害する程度の被曝をし爆発事故の危険を冒しながら働く人々が絶対にいてもらわなければならない。

このような状況の下で、自己一身の安全を求めて原発から逃げて生活することは「身勝手」なように見える。

しかしこの「身勝手」を容認することこそが、憲法の保障する「個人の尊重」の実質的な意味である。すなわち、「基本的人権」の本質である。

誰かが原発の現場で、危険を冒し健康を害しながら働いていなければならない限り、自分が生存できる社会も成り立たない。そうであるならば、そのような危険や被害は社会の全員に平等に負担させるのが正義ではないか。国民の義務として、すべての国民に原発労働を分担させるべきではないか。という考えもありうる。

しかしながら、そのような考え方は、日本国憲法の基本価値である「個人の尊重」には真っ向から対立するものである。

憲法の「個人の尊重」(個人主義、日本国憲法13条)は何よりも、国家から「逃げる」自由を保障するものである。

同時にそれは、「正義」から逃げる自由でもある。(国家はいつも「正義」を体して現れる)。

「個人の尊重」は、「人間の尊重」や「命の尊重」ではない。

立憲主義の下における個人の尊重は、あくまで「個人」の「自由」を尊重するものである。

「命の尊重」なら、命は事実として皆に一つずつ与えられているのだろうから、皆に平等に、同程度に尊重されなければならないだろう。

しかし、「個人の尊重」は、現実の命を保障するものでないのはもちろん、命を後見するものでもない。個人の自由に生きるチャンスを消極的に保障することが大原則である。

「生存権」も、個人の生きる「チャンス」を、自由の原則の枠内で、できる限り実質的に保障しようというものであり、「チャンスの保障」であることには変わりがない。

原発問題に関して日本の社民党がしばしば強調しているような「命」「いのち」の尊重は、命という「現実」の平等な尊重を意味するものであり、全体主義的な個人の自由の制限、「自分だけ逃げる自由」の制限、につながりかねない危険な思想であると考える。

Freedom, the Individual and the Law / H. Street
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