Monthly Archives: June 2009

安全な国 危険な国

【5月30日 AFP】 経済誌『エコノミスト(Economist)』関連のグループや平和学・紛争研究の専門家らなどが、世界の平和と持続性について共同の指標づくりに取り組んだ研究、「グローバル・ピース・インデックス(Global Peace Index、世界平和指標)」が30日、発表された。日本は平和度別ランキングで世界5位だった。
http://www.afpbb.com/article/politics/2232151/1638722

と報道されていますが、元をあたってみると、日本が5位だったのは2008年で2009年は7位では?
http://www.visionofhumanity.org/gpi/home.php
http://en.wikipedia.org/wiki/Global_Peace_Index

だいたい白人組織が出してくるこの種のレイティングは当てになりません。必ず北欧諸国やニュージーランドが上位を占めることになる。

これらの国はお雛様のようなもので、汚れ仕事はアメリカなどにやらせ、その反射的利益は享受しつつも、「白人の本来の姿」を展示し続けるのが仕事です。

peaceという概念もそもそも曖昧です。

「社会に差別や偏見がない」ことも「ピース」に含まれるとし、それを「人の心の中に差別や偏見がない」というところまで掘り下げてしまうと、どんなふうにでも解釈できるようになるでしょう。

アジア人が歩いているとときどき石が飛んでくる白人の国よりも、白人が歩いていても石は絶対に飛んでこないが「国民の心の中に強い差別意識があるに違いない」日本のほうが「危ない国」だとすることも可能なのです。

現にこのインデックスでは、近隣諸国との友好関係も評価項目に含まれています。しかし、近隣諸国との政治的関係が悪いからといってその国の社会が安全でないことになる具体的な根拠はないと思います。

日本が国際的なイデオロギー戦争に弱いのは、よく言われるように日本語がマイナー言語だからということよりも、カネが有り余っていたときに日本のブルジョアが慈善事業や非営利事業や日本語の普及事業に、身銭を切って打ち込んでこなかったことの報いだと思います。

余裕のあるときに無駄に見えるカネを投じて「キレイゴト」のネットワークをしっかり作っておくべきだったのです。

キレイゴトのネットワークは、情報戦略に使えるし、逆風に強いからです。各種のNPO、ボランティア活動、国際慈善団体、キリスト教ミッショナリー、などのネットワークをを白人はフルに活用していると思います。

インドシナ諸国で、エフビーアイやCIAが、キリスト教ミッショナリー団体と一体となって現地国家の保護の下に山間部僻地の隅々まで情報網を張り巡らせて活動をしていることは、アメリカ人ツーリストもわりと普通に知っていることです。(CIAよりもエフビーアイが結構派手に活動していて、捜査活動や実行行為もするそうです)。

日本の戦略の弱さは、歴史認識の甘さ、人間性の洞察の浅さにあるといえると思います。
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乞食する白人

クアラルンプール、パサルスニで。表情や仕草から判断して(セム系ではなく)「白人」だと思う。マレー人にも白人のようなのはたまにいますが、これとは雰囲気ないしオーラが違います。
「募金箱」には英語、中国語、マレー語で「お願い」の文句が。

白人の乞食がいて悪いわけではないですが、乞食ができるビザを出している国はありません。

しかし東南アジアには乞食していたり本当に乞食同然の生活をしている白人がいます。とくにタイ。

(比喩的に「乞食のような」日本人はタイにいっぱいいますが、本当に乞食している日本人は意外に少ないと思います)。

たとえばタイで、日本人が本当に乞食をしていたらどんなことになる可能性が高いでしょうか。すぐに官憲につかまる可能性が一番高いでしょうが、日本人が乞食同然の立場になった敗戦後の経験からも推測することができると思います。

日本敗戦後のタイ人による日本人虐殺事件
http://iscariot.cocolog-nifty.com/kuantan/2008/02/post_efdf.html
http://kuantan.blog74.fc2.com/blog-entry-619.html <a href=”http://ws.amazon.co.jp/widgets/q?ServiceVersion=20070822&MarketPlace=JP&ID=V20070822%2FJP%2Fhttpiscarcoco-22%2F8005%2F27df5323-3557-4329-89bb-8feff91d347b&Operation=NoScript”>Amazon.co.jp ウィジェット</a>

「幸福実現党」の憲法案について

恩義Obligeさんという創価の読者がいるので言いにくいところもあるが、私は創価は嫌いです。(マレーシアにも浸透しているらしく、コタバルで親日気取りのシナ人創価がよってきたこともある)。

しかし、幸福実現党は、ネトウヨ層のツボを上手に押さえているようでもあり、さらに危険なものを感じます。

憲法の変動は「改正」だけではなく、何種類にも分類されうるそうですが、憲法を「改正」するという場合には、「憲法制定権力」自体は変動しないし、もちろん立憲主義も廃止しません。

憲法制定権力の所在が変わるような憲法変動は政治的には革命というのでしょうが、憲法は「破棄」されるということになるのでしょう。(正確な学問的な言葉遣いはわかりません)

しかし、「立憲主義」自体が廃止されるような場合には、憲法が廃棄されるまたは廃止される、というふうに言われるのだと思います。

これはひとつの思想的立場ではあって、たとえば「17条の憲法」は憲法とは言えず「憲法」と言えるのは「立憲主義的な意味での憲法」だけだ、という考え方です。「権利の保障が確保されず、権力の分立が定められていないすべての社会は、憲法をもつものではない」というわりと有名な言葉があります。

しかし日本の憲法も、こういう(特殊なひとつの)考え方に則っているのです。大日本帝国憲法も議論はあるでしょうが基本的にはこの考え方に則っていたはずです。

それでは「立憲主義」とはなにか、ということですが、これは民主主義のことではまったくありません。むしろ民主主義に対立するものです。

立憲主義は横暴な国家権力を制限して個人の自由を守るということですが、民主制の下では、民主的な多数派の権力を制限し、個人の自由を確保することを意味します。多数派の意思の制限こそ立憲主義の眼目だとされます。(これは教養レベルの教科書に書いてあることなので私を追求せず教養の憲法の教科書でも見てください)。

そして個人の権利・自由を多数派の力から守るための現実的な手段が、先にあげた言葉にもある「権力の分立」にほかなりません。

だから、憲法の本質である「立憲主義」を最後の最後に守っているのは(決して民衆やら民意ではなく!)「権力の分立」なのです。

具体的に言うと、民主的機関でない裁判所が、民主的機関(国会)が作った法律の無効を宣言することができるという専制的でさえある原理主義です(違憲法令審査制)。(だから、裁判所を民主化する動き自体、立憲主義からは疑問なのです)。

しかし、もちろんその権力の分立は制度に過ぎないので、力によって壊されることがあります。たとえば、政治において「民意」が尊重されすぎ、憲法の解釈も「民意」によって歪められるようになったときです。

われわれが頂いている立憲主義憲法というのは、イスラーム法みたいなものだと思ったほうが良いかもしれません。

つまり、われわれがずっと空気のように受け入れている立憲主義は、それ自体宗教だということです。「個人の自由」宗教なのです。

「そういうのは嫌だ」というのも自由ですが、そういう人は「それに変わるもの」が何かの見当をちゃんとつけた上で言っているでしょうか。

改めて言うと、立憲主義そのものを廃止するような憲法変動は「憲法改正」ではなく、「憲法廃止」というべき大革命なのだということと、立憲主義の制度的保障は「権力の分立」なのだということは、頭に置いておいた方が良いと思います。

幸福実現党が唱える「憲法改正」は、「立憲主義そのものの廃止案」ではないかという疑いが強くあります。それが本当に良いんだというなら、それも日本人の選択でしょうが。


幸福実現党の憲法改正草案がすさまじい件

http://nw2.blog112.fc2.com/blog-entry-1416.html

第7条 大統領令と国会による法律が矛盾した場合は、最高裁長官がこれを仲介する。二週間以内に結論が出ない場合は、大統領令が優先する。
第8条 裁判所は三審制により成立するが、最高裁長官は、法律の専門知識を有する者の中から、徳望のある者を国民が選出する。

第15条 本憲法により、旧憲法を廃止する。本憲法は大統領の同意のもと、国会の総議員の過半数以上の提案を経て、国民投票で改正される。

憲法    憲法改正    立憲主義

権力分立    裁判所    
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「デカルトと引用精神」戸坂潤『読書法』Ⅱ9(戸坂潤全集第5巻)

左翼はこういう人の批評をもっと真剣に勉強したほうが良いのではないかと私は思います。

私も戸坂潤全集はほぼ通読しましたが、特に「イデオロギーの論理学」や「空間について」が好きで何度も読みました。

「空間について」は大学で書いた論文なので別として、「イデオロギーの論理学」も「伝承的な教養をそのまま使う代りに、これを分解しすりつぶして、自分自身の観念と言葉とによって、自分自身気のすむように築き上げ直そう、という」デカルト精神にあふれていると思います。そのほかに「科学方法論」も、読んで美しい作品です。

デカルトがここで言われるように「最もすぐれたスコラ哲学の知悉者」だったかどうかは私にはわかりません。が、井筒俊彦「イスラーム思想史」などを読んだ感想としては、デカルトが世界標準で「スコラ学の知悉者」といえるような者だったのかどうかはちょっと疑問だと思います。イスラム世界には「アリストテレスの『形而上学』を気がついたら40回も読んでいたが、それでもどうしても本当にわかったような気にならない」というレベルの神学者・哲学者はたくさんいたらしいです。(私も『形而上学』の翻訳は、一時間一ページくらいのスピードで苦悶しつつ何十ページか読み、何がなんだかさっぱりわからず、断念した経験があります)。

ここでは「引用」ではなく「コピペ」です。

彼の著述態度或いは身振り(ポーズ)の著しい特色の一つは、広義に於ても狭義に於ても、引用というものを利用することが極めて少ないという事である。リフェレンス又はアリュージョンという形の引用さえ少ない、ということである。デカルトはこうした引用を極度に避けただけでなく、自分の思想の様々な源泉に通じる要素が、先人に負う所のありそうな個所をば、極力抹殺し、マスクをかぶることに努めている、とさえ批評されている。所がA・コワレ(『デカルトとスコラ哲学』)などのいう所によっても、デカルトは決して古人や先輩の書物を読んでいないのではないのだ。ひそかに大いに読んでいる。必要な本が手に這入るまでは脱稿をのばしたとか、聖トマスの『スンマ・テオロギカ』やスアレスの本を携えて旅行に出たとか、という事実も挙がっている。
ガリレイの裁判事件を聴いて極度に衝撃を受け、自分の著述活動に恐らく必要以上の政治的要心をしたらしいデカルトの性格と、今述べたこの著述態度との間には、恐らく関係があるのだろう。コワレも云っている。「彼は決して引用をやらない、やってもアルキメデスやアリストテレスの名を挙げるだけである。のみならず例えば明らかにアウグスティヌスやアンセルムスの真似だと思われると、自分がまだ読んだことのない先人と偶然な思いもよらぬ一致を見出したと云って、驚き且つ喜んで見せるという子供らしい又少し滑稽じみた芝居を始めるのだ。そして全くの詭弁や甚だ芳しからぬ説明を用いて、自分の説とその先人の説とが相違しているという苦しい区別を探し出すのである」と。
だが彼のこういう一面の性格に関するらしいことは今問題でない。実は彼こそ最もすぐれたスコラ哲学の悉知者であった。彼の思想の源泉は、ありと凡ゆる処から来ている。恐らくデカルトは、一般にそういう文献学的な(スコラ的・学校的)知識において甚だ豊富な学者であったと推定される。そして特にスコラ哲学的教養に至っては、彼の「近世的」なそして独創的な哲学そのものの、根本的な素養をなすものだと云われている。彼はただそれをあからさまに、それとは示さないように心掛けたわけだが。
デカルトの本当のオリジナリティーは、この伝承的な教養をそのまま使う代りに、これを分解しすりつぶして、自分自身の観念と言葉とによって、自分自身気のすむように築き上げ直そう、というその極めて懐疑的であると同時に極めて建設的な決心の内にあったと見ねばならぬ。そう見れば云うまでもなく、さっきから述べて来たような引用抹殺のポーズは、決して虚勢や何かではなかったことがわかる。そしてそれが云わば露骨に、見本のように現われたのが、他ならぬ『ディスクール』であったのだ。
かくて私はデカルトの俗語によるこの哲学著述において、アレキサンドリア的・スコラ的・(それからもっと一般に種々の)文献学主義に対する最も近代的な批判の精神を見るのである。彼は「引用」というもののもち得る科学上の弱点に対する最も鋭い批判者である。学術的僧侶用語に対する最も大胆な挑戦者である(事実僧侶生活と無関係ではなかったに拘らず)。この文献学主義に対する反対態度は、すでにF・ベーコンの「劇場の偶像」の打倒のモットーとしても現われているし、更に溯れば、ルネサンスにおける「書かれた知恵」に対する「自然の知恵」の高唱としても現われている。だからデカルトはこの意味において最も近代的な哲学者であり従って又近世哲学の祖でもある、と云っていいわけだ。

http://pfeil.hp.infoseek.co.jp/B5/FRAMEB5_3.HTM

戸坂潤全集

デカルト

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スリランカの紅茶生産が危機、干ばつで収穫激減

マレーシアは赤道に近い割りに涼しいところといえますが、今年は例年になく暑いです。夕立が来るようになりましたがなかなか涼しくなりません。やはり、世界的に気象が少し変わってきているのかもしれません。

マレーシアでも「今年はモンスーンが遅い(早い)」などと報道されることがありますが、モンスーンとは何か、はっきりわかっている人はどのくらいいるでしょうか。私はずっと「特定の地域の特定の季節風」のことだとばかり思っていました。

ウィキペディアによると「ある地域で、一定の方角への風が特によく吹く傾向があるとき、その風を卓越風と呼ぶが、季節によって風の吹く方角(卓越風向)が変化するものをモンスーン (monsoon) と呼ぶ。アラビア語の季節(モウスィム、الموسم、Mawsim)に由来する用語である」ということです。

スリランカの紅茶生産が危機、干ばつで収穫激減
* 2009年06月29日 18:12 発信地:コトマレ/スリランカ

【6月29日 AFP】世界最大の紅茶輸出国スリランカで、茶農園が集中する内陸高地がひどい干ばつに見舞われ、紅茶の生産が危機に直面している。(以下略)

AFPは写真がきれいなのでクリックする価値はあります。

サイトをコピペされるのが嫌なら、まずリンクが切れるようにしない(けちけちせず、自社の過去記事を検索されることを怖れず公開し続ける)、AFPのようにきれいな写真を載せて落せないようにしておく、というような努力をすべきだと思います。

AFPも欧米の会社なのでそれなりに偏向してはいますが、英米発信の報道とはニュースの選択も内容もニュアンスの違いがあると思います。伝統ある植民地大国の会社でもあり、アジアアフリカのニュースにも強いようです。

ただ、日本語版はしばしば誤訳がありそうです。翻訳者が無能なのだと思いますが、とくに地名の表記で、Kelantanを「ケランタン」(私なら「クランタン」)、Kathmandu Valleyを「カトマンドゥの谷」(私なら「カトマンドゥ盆地」)など、疑問を感じることがあります。

AFP   通信社

スリランカ   紅茶

モンスーン   エルニーニョ   温暖化
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メイド虐待

インドネシア人のメイドSiti Hajarがマレーシアで三年以上にわたって虐待されていたことがインドネシアで問題になり、インドネシア政府がマレーシアへのメイド派遣を中止したというニュースは、マレーシアの新聞でもよく取り上げられているので知っていた。

(マレーシア政府は、インドネシア人女性がツーリストビザでマレーシアに来て周旋業者に登録しそのまま労働許可を取ってメイドとして働くことは大歓迎ということで、インドネシア政府もそれはとめられないということ)。

しかし私は、このメイドの受けた虐待が「顔に熱湯をかけられてひどい火傷ができた」というものだったことは、日本からのニュース報道ではじめて知った。それまではてっきり性的虐待などだろうと思っていた。マレーシアの新聞では熱湯の件は報道されていないのである。テレビは見ていないがひどい火傷がテレビで報道されたというのはインドネシアでのことだろう。

思えば、メイドが性的虐待を受けたくらいだったらインドネシア政府も国民もこんなに怒り狂わなかっただろう。メイドはレイプされてなんぼくらいの胆はインドネシアにはあるだろう。

(性奴隷だの従軍慰安婦だのとわめきたてる国民には、それがどうしたの、それくらいでギャーギャー騒ぐとは金玉が小さいやつだ、と開き直ってやるのが一番いいのである。組織的に虐殺したとかいうならともかく兵隊のレイプレベルの問題で「事実」を争っていきり立つなど愚の骨頂だ)。

マレーシアの新聞は「インドネシアはマレーシアのことになると何かあるたびにこうやって感情的に反発するのはいかがなものか。確かにマレーシアとインドネシアは独立後すぐにボルネオの領土をめぐって戦争をした。しかしそれはもう40年も前のことだ。マレーシアがインドネシア人が何かするたびに同じような反応をしたらインドネシアも困るだろう。たとえば、煙害だってインドネシアのせいだし、マレーシアにいるインドネシア人の犯罪も多い。そのたびにインドネシアとの関係を断ち切るようなことをしたらインドネシアがいちばん困るだろう。マレーシアはこれを機にメイド政策を考え直したほうがいい。現在禁止している中国人メイドを解禁するとか。そうなれば今度はメイドの競争が激しくなってインドネシアも思い知るはずだ」というような識者の評論を堂々と載せていた。

マレーシアが普通の国だからだろう。

インドネシアの感情的な反応も子供じみているといえるかもしれないが、マレーシアは汚いことを平気でやるし(ボルネオ紛争のときもマレーシアはイギリスに倣ってグルカ兵〔ネパール人傭兵〕を投入した)マレーシア人は一般に性格が悪いので、インドネシア人がマレーシア嫌いなのは理解できる。

インドネシア人は中国人嫌いといわれるが、何よりマレー人が嫌いなようだ。

メイド虐待に反発、インドネシアがマレーシアへの出稼ぎ停止

読売新聞2009年6月28日(日)20:31

 【ジャカルタ=林英彰】インドネシア政府は、マレーシアへの出稼ぎ労働者の派遣を一時停止した。

 同国で働くインドネシア人メイドに対する虐待事件が大きく報道され、労働者保護を求める声が高まっていた。

 停止措置は、両国が待遇改善策で合意するまで継続する。

 派遣停止の対象はメイドのほか、建設現場や農園で働く作業員。マレーシア人雇用主からの暴行や給料未払いといった問題はこれまでも起きていたが、6月中旬に雇用主のマレーシア人女性から熱湯をかけられ、顔が赤くただれたメイドのシティ・ハジャルさん(33)の姿がテレビで報道され、国民に大きなショックを与えた。

 インドネシア側は労働者の給与や休暇の保証、パスポートの本人所持などを求めており、両国は7月中旬、労働条件の改善策を協議する。インドネシアの海外労働者は約600万人。派遣国別ではマレーシアが約120万人で最も多い。

日本人から見ると一般のインドネシア人の多くは「恐ろしいほどの土人」である。しかしジャワやスマトラでは、タイ人やマレーシア人のように白人に醜く媚びる姿は見なかった。(バリではどうかわからない)。バンドゥン工科大の学生たちが、タイやマレーシアのインテリのような鼻持ちならないところがまったくなくて、とても親切だったことを思い出す。(私はバンドゥン工科大の構内をさまよってネットができるところを聞きまわったことがある)。ジャワの女性には本当にきれいな人がいる。インドネシアの米はインディカ種だがなぜか白米だけでも美味い。

メイド虐待    メイド

ご主人様

性奴隷    慰安婦    従軍慰安婦

やけど

バンドゥン    ジャワ
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小便するインド人

マレーシアはタミル系のインド人が多い。私はカレーが好きなのでほぼ毎日インド料理屋に行く。そこで働いているのはみなタミル系のインド人である。

いつも怒っているような感じの人が多いが、なかには愛想のいい人もいる。

愛想が良いといっても、マレーシア人は人種を問わず、いくら長く付き合っていても外国人と友達になって「打ち解ける」ということは少ないように見える。その点は単一民族系のアジアの国とは違う。

マレーシアを多民族共生国家の模範のように美化して描く人も、外国に地上の楽園を求めたがる日本の間抜けな言論人のなかにはいるようだが、マレーシア人はナイーブではない。

マレーシアにはマジョリティとして安堵できる集団はない。

マレー人は数的にはマジョリティで政治的な特権を持っているが、もともと無能な民族であることは彼ら自身が自覚している。(知能が遺伝によってほぼ決まることは科学的に証明されているという)。

マレー人には特権で保護されているという自覚もあるから、常に他民族を警戒し、他者に対して閉じた性格になるようだ。

マイノリティ集団が外部の者を警戒しなければならないのはいうまでもない。

公務員の95パーセントはマレー人で閉められていて、警察は多かれ少なかれヤクザのようなものである。日本もそうだが、東南アジアはなおさらである。

だから、どの集団も常に外部の者を警戒していて、互いにギスギスしているのがマレーシア社会である。

多民族国家というのは必ずギスギスする。

文化も言語も宗教も違う集団は価値観も国家観も根本的に違うから、多民族国家(本当に多民族国家と言える国家)には民主制は機能しないのである。民主制は同質的な市民で構成される国家を前提とした制度なのだ。

だから多民族国家が良いという人は、民主制を捨てて特権と根回しと言論弾圧の国が良いといっていることになるのである。

価値観も国家間も根本的に違う諸々の集団がそれぞれ勝手なことをわめきだしたら収拾がつかなくなり、社会不安をもたらすだろう。価値観の根本的に違う者の間には「妥協」も成り立たないから、多民族国家をまがりなりにも成り立たせていくためには言論弾圧も必要になる。

マレーシアの政治家は、One Malaysiaを強調しつつ各民族の独自性と多様性を強調し、民族の平等を強調しつつマレー人等(ブミプトラ)の特権はおろそかにしないことを強調し、イスラム国家であることを忘れてはいけないと釘をさすことも忘れないのである。俺は前任者とは理念が違うと言っても以上のことは変わらず、ニュアンスの違いを原則の違いであるかのように強弁しているに過ぎない。

タイに長く住んでタイ語を話しタイ人の真似をして振舞っていれば、日本人も「偽タイ人」になれて、陰で嘲笑されつつも「タイ人気分」になれるかもしれないが、マレーシアではそういうことも難しい。

つまり、マレーシアに滞在した外国人が、タイやネパールのヲタたちが得るような「第二のふるさと」幻想に浸ることは難しいはずである。

マレー人はマレー人だからマレー人なのである。マレー半島に住んでいるからでも、マレー語を話すからでも、ムスリムだからでもない。

タミル系のインド人も(インドのタミルナドゥとは別の)マレーシアのタミル系インド人コミュニティを作っている。

タミル系にもムスリムとヒンドゥ教徒とがいる。そのほかにパンジャブ系(シーク教徒)のコミュニティなどもある。

このようなわけで、マレーシア人は、人種民族を問わず、いつまでたってもよそよそしく打ち解けない人が多いのだが、なかには人懐っこい人もいる。

私の経験ではタミル系のインド人に懐っこい人が多い。

後進国で人懐っこい人は、「なれなれしい人」でもある。

前置きが長くなったが、

いつものインドレストランで私に愛想良くしてくれる、タミル系にしても肌の色が黒い男と、ビルのトイレで一緒になった。

小便器がたくさんあいているのに私の隣にくっつりついてくる。

そういうことは後進国ではよくあることである。そして小便しようとすると覗き込む。これもありがちだ。

自分のモノも隠そうとしない。色黒の男で、背は低いが、一物は立派なようだった。

水を流しながら小便をしている。

ふと見ると、小便器を流れる流水を左手ですくっている。

その水で自分の性器を洗っている。小便をしながら、何度かそれを繰り返す。

尻を水で洗うのは普通だが、小便しながら性器を水で洗うのは始めて見た。

しかも、男子便器を流れる水をすくって洗っていたのは驚きだった。

小便が終わるとその男は何を考えたのか私の横にぴったりついてきて覗き込み局部に手を出そうとした。まったくよくわからないが、触ろうとしたようだ。私は早々に逃げ出した。そっちのほうの人だったのかもしれない。

その晩もその男はレストランで愛想がよかった。

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