Monthly Archives: April 2009

何故メキシコに死者が集中しているのか

結論からいえば、「震源地だから」ということだと思う。

陰謀論に立つベンジャミン・フルフォード氏によれば、これは「ウイルス兵器」というものがそもそも持つ困難性だという。この先生によれば、豚インフルはブッシュ=クリントン一味の悪あがきのような生物テロなのだが、メキシコに投下したのが強毒過ぎて、感染した人が次々に倒れてしまうので、本当に毒の強い株は伝染の機会を失ってしまい犠牲者といっしょにお陀仏になる。その結果、遠くまで伝染するのは、同じ型であっても患者が旅行できる程度の弱毒タイプの株に限られることになる。潜伏期間が長い病気であっても、ただ感染しているだけでは伝染力は弱いのが通例で、発病しているかそれに近い段階になっていないと強い伝染力は持つことができない。そういうわけで、急性症状が激しい致死的伝染病が世界規模で蔓延するということは原理的に困難だということになる。有色人種根絶やしを企んだ生物兵器であるHIVがうまく行かなかったのもそこに理由がある。ということである。

しかし仮にこの理屈が正しいとすると、世界支配階級の頭のいい人たちが、私がいま携帯片手に昨日ネットで読んだ話を思い出しながらちょっと考えてすぐ納得してしまうような理屈を、予想もできなかったという不自然なことになってしまうので、やっぱりこの理屈が間違っているか、ウイルス兵器テロが世界支配階級の仕業でないか、のどちらかなのではないかという疑問もないではない。

それよりも、今朝5時頃からうちのネットがなぜかつながらない。ネパールやアルメニアの田舎のネット屋でもあるまいに、日本の名の通ったプロバイダーの光の回線がこんなふうに突然不通になって一時間以上も復旧しないということがそうあるものだろうか。これは私を狙い撃ちにした世界支配階級の攻撃なのではないのか・・・・

私も陰謀論は好きなほうと言えるが、陰謀論にのめり込んでいると、だんだん上のような疑念に疑問を感じなくなりそうなので、たしなむ程度に心がけているのである。

「時刻表検定」

日本でぼっと白雉のような生活をしていると、旅行の生活をしていてはなかなか得られない知識が舞い込んでくることもある。

今日はじめて知ったことだが、日本には「時刻表検定」なる資格試験があるらしい。

時刻表検定って時刻表を暗記するのか。なんのために?

と思ったが、主催者のサイトを覗いてみると、そういうことではないということ。

しかし、この説明を読むとこの検定の「意味」がますますわからなくなる。

この検定試験は一般の方には日常生活ではあまり活用されていない時刻表に秘められた1000頁を超える膨大な情報を再発見し、その知識の活用や楽しさを広く知ってもらおうと企画されたものです。
 他の一般的な、知識量や理解度を試す検定試験とは異なり、時刻表検定では、あくまでも時刻表を使いこなす能力を検定するため、試験には実際の時刻表・電卓の持ち込みが認められています
 検定試験の種類は、第1種・第2種の2種類。第1種では、時刻表を日常的に業務に利用している方や、趣味として高い水準で時刻表を愛読されている方などを対象とし、得点によって時刻表博士・1級・2級を認定します。
 第2種は、第1種に比べ簡単な内容となり、時刻表ファンとしての初心者クラスから受験していただくことが可能で、得点によって3級・4級・5級を認定します。

http://www.jikokuhyo.gr.jp/04jik.htm

「なんのために?」というぬぐいがたい疑問・・・・。

しかしそのような問いは、「この世界」では禁ぜられた問いなのだろう。

『それではお前は「なんのために」生きているのか』と真顔で問い返されるのに違いない。

思わずのけぞってしまうマジメな事柄がこの日本には多い。

「・・・趣味として高い水準で時刻表を愛読されている方などを対象とし・・・」

「時刻表」を「高い水準で」「愛読」している人たちが日本にはいるらしい!!!

これは「学問」なのだろうか?

世の中にはいろんな「学問」があるらしく、ゼニ儲けの技能の勉強で「哲学博士」の称号をもらう人もいるそうだから、「時刻表を高い水準で読むこと」が学問であって悪い理由はないのかもしれない。

歌が上手ければいいのか スーザン・ボイル騒ぎ

日本でもニュースになり始めたようですが、この人の話題。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090429-00000000-maiall-int

スーザン・ボイル

歌唱力を絶賛する人が日本にもいるようですが、私は率直に言って、声を聞いても、これがいいとは思わない。これに何度も「接したい」とはまったく感じません。

音楽のことはわかりませんが、「歌唱力」というようなものを抽象的に取り上げて評価するなら、演歌歌手なども歌が非常に上手いといえるだろうし、オペラ歌手など、「歌の上手い」人は常に存在しているだろうと思います。

「歌声」とか「声」(のすばらしさ、心云々・・・)と言っても同じことです。

芸術的な表現というものの価値は、あることを表現することが出来るかどうかではなく、現実に、いつ何を表現するか、いつ何を表現しないか、によって決まるものだと思います。

したがって、芸術的な表現には抽象的な普遍性はなく、それはメディアに依存して成立し、その価値もメディアに依存するものだと言うことが出来ると思います。

そのように考えると、音声だけでなく映像も直ちに伝達してしまうメディアにおいてこのような表現活動をしている場合に、音声価値を映像価値から切り離すことを受け手側に強要するのは、時代に逆行しているというだけでなく、芸術的な表現というものの本来の制約を無視した掟破りのヴァンダリズムだということが出来るはずです。

だいたい、・・・・彼らの威勢が良かった時期に、人間は容姿が大切だ、容姿も才能である、容姿の美には客観的な基準がある、それはわれわれが提供しているものだ、と言わんばかりの宣伝を散々やってきたアングロサクソンが、今になってあんなものを持ち出して優等生ぶるのは、悪い趣味だといわざるを得ないと思います。

I Dreamed A Dream
I Dreamed A Dream

「感情の放蕩」の麻酔作用

日本のテレビを始めとするマスコミに接していて一番気持ち悪いと感じるのは、センチメンタリズム、感情過多、だらだらと流される安価な涙である。

安価な涙はファシズムにつながるとか、日本ファシズムを支えたのは安価な涙・群衆的センチメンタリズムだったとか、そういう主張をする人もいたが、一理はあるかもしれない。ただ私は、「近代市民」がそういう安価な涙から自由だとか、自立的な合理的個人が確立されていたらこの種の感情過多が生じないとかは、まったく思わないだけである。「近代市民」やその他の「市民」や「自律的個人」など、日本で叫ばれることのある倫理的ユートピア主義の標語はすべて、おなじように安価であり、情念的であり、感情の放蕩を来たすものである。

いずれも現実を見えなくするのが目的である。自分が惨めなのは自分が出来損ないだからだということは、往々にしてあることである。これ以上の理由は必要がないことが多い。世の中には出来の良いのと出来損ないとがあり、たまたま自分が出来がよかったり出来損ないだったりするだけである。たまたま自分が出来損ないだったときには、問題はすべて「個別的な」自分に帰せられるべきなのに、「日本人」とか「近代人」とか「人類」とか「人間」とかの大問題にすりかえられる。すり替えを目隠しするのが大仰な言葉と「感情の放蕩」である。

気に入らないやつがいる、ひとこと言ってやりたいというだけのことなのに、「日本人」とか「国家」とか「全体主義」とか、大きな言葉を引き入れることで、特殊な感情を喚起して自分にも人にも本当の理由を見えなくさせる場合も同じである。優秀な自分を認めないいま上にいる連中が気に入らない、恨みを持っている、というだけのことが、大きな政治やイデオロギーの問題にすりかえられる。

日本のマスコミが、恥知らずな感情の露出、感情過多を常に演出しているのも、「本当の動機」を常に見えなくさせるためだろうと思われる。感情の放蕩に浸っている間は、現実の苦痛を忘れることも出来る。日本の社会は、互いに「本当の動機」を見えなくさせるように感情を高めあい、露出しあい、苦痛を麻痺させあうことで成り立っている社会のように思われる。

侵害し、侵略し、略奪し、陵辱し、嘲弄し、破壊する、という行為が、本来快感なのだということも一切隠される。人間の最も基本的な快感も隠される。子供たちの遊びが人間の本能を教えてくれるはずだ。しかし、遊び、たとえば、戦争ごっこさえ、日本では禁じられかねない。人間の文明が、人間にとって本来快であることを禁じることから始まっているということも、隠されることになる。