Monthly Archives: January 2009

ダランDharan行き夜行バスチケットを買う

ナヤバスパークへ行き、明日夕方発ダラン行き夜行バスチケットを買う。700ネパールルピア。

ナヤバザールからマイクロバスでバラジューまで行き(10ルピア)、そこから歩いてナヤバスパークへ。

ダランの手前のコシ川の橋は落ちたままで、ボートで渡らなければならない。多くの人がボートに殺到し荷物をたくさん載せるので転覆することもあるとか。その時間が深夜になると特に危ない。

そのせいで、ビラトナガル行きの飛行機は一週間前でなければチケットが買えないのだとか。

それにしてもカトマンドゥは、タメルを一歩出るとゴミだらけで汚い。タメルはゴミのような毛唐だらけ。

ダランには立派なネット屋があるが、日本語は使えない可能性が高い。(去年は奇跡的に、スタッフが親切で特別な知識があり、インターネットからダウンロードしてインストールするようなやり方で日本語を入れてくれたが)。


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児童労働と自尊心

これに関連して。

自分が子供のころのことを思い起こしてみると、小学校の高学年くらいになったころ、自分が実社会で「仕事」を持たず、誰の役にも立っておらず必要とされていないことに関して、「カッコ悪い」という感覚を持っていたのを思い出す。

役に立たないのが「親に申し訳ない」とか「後ろめたい」というのとは違い、実社会の役割をもてないことがカッコ悪いような気がしたのである。

子供だから仕方がないことなのだが、自分が「子供でしかない」ことをカッコ悪いと感じていたのだと思う。また、そこに焦りのような感覚もあった。

当時は、仕事がある、役割があるということは、それだけでキラキラと輝いているようで、すばらしくカッコイイことのように感じた。

仕事、役割といっても学校や子供の世界の仕事や役割ではない。そういう仮の世界ではなく、大人の世界、実の世界で本業たる仕事を持つこと、そこによって立ち独立することのできる役割を持っているということは、どんなにすばらしいことだろうかと思っていた。

そういうことを思い出してみると、カトマンドゥでも見るチャイボーイたちは、当時の自分に比べて、どれほど精神的に充実した、プライドに満ちた毎日を送っていることかと思う。

これは彼らがそういうことでもないし、外から見てわかることでもない。

彼らは自分が子供であることはわかっているし、それは誰も否定しない。

それでも彼らは、実社会で大人と対等の役割を持ち、それによって立って自立し、おそらく故郷の親にも金を送っている(前借金かもしれないが・・・)。

客の大人たちと「実務上」のやり取りをし、コミュニケーションをする。それらを楽しんでいるとはいわなくても、楽しんでいるだろう。忙しく立ち働きながらも好奇心はいっぱいである。

彼らは実社会で役割を果たして労働していることに「自尊心」を感じているはずだ。

そして、彼らのその自尊心は十分に尊重に値するものだと私は思う。

ところがしかし、こういう「自尊心」は現代の社会ではほとんど評価されない。労働する子供の自尊心の価値は右も左も認めようとしないように見える。

尊重に値するとされるのはもっぱら、学校に行き、技能だけでなく知識と教養を身につけることばかりである。

教育を受け教養を身につけることにより初めて人格は陶冶され人間性は豊かになり、顧慮に値する自尊心も獲得されうるかのような話ばかり聞かされてきたように感じる。

左翼は「労働」を尊敬に値するものだと主張したのではないか?

ところがその後の彼らの言動は、すべてその反対方向に向かっているように見える。

彼らは自分が言っていた建前を、本当は少しも信じてはいなかった。

左翼は、労働が人間性を豊かにするなどと本気ではまったく考えていない。

彼らもまた、真の教養はやはり日本でいえば東大のようなところに進むコースにおいて獲得されるものだと信じているはずだ。

しかし、教養によって得られる自尊心もあるだろうが(ブラーマンの自尊心とでも言おうか)、それとは別の自尊心もあるはずだ。

とにかく私は、「子供を働かせないで学校にやる」ことが「子供の人権の救済」ではないのではないか、と感じている。

尊敬に値する人間性と人格は、働かず学校で教育を受けることによって得られるものではないのではないか。

実社会で働いている子供は、働くことによって「充実感」、「幸福感」、なにより「自尊心」を得ていると私は思う。

そして、われわれの共有する建前である「人権」とか「個人の尊厳」という理念は、人間がそのような感情を(可能的にであれ)有していることに拠っているはずである。


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タメルをうろつくタイ人僧

ネパールでも、カトマンドゥでいちばん退廃したエリアであるタメル地区に、黄色い僧衣のタイ人坊主が、もったいつけてうろついているのが目につく。

売春婦とタイ坊主、売春とタイ仏教、腐臭と黄土色の僧衣。これらは切っても切り離せない関係にある。

タイ仏教ほど腐敗した集団は少なく、タイ坊主ほど堕落した連中も少ない。

{金融+麻薬}マフィア=タイ王室、およびタイ仏教こそ、東南アジアの悪臭源である。

彼らの悪質なところは、白人に取り入って彼ら「タイ」こそ「アジア」の代表であるかのように売り込み、そのように世界中に宣伝させていることである。

そのお蔭で、「アジア」=売春・買春自由、「アジア」=腐敗、「アジア」=醜い金銭欲と権力欲・事大主義、「アジア」=人種差別・白人至上主義・白人天国、という図式が出来上がってしまった。

この図式はタイの売り込みと白人の押し付けが呼応して成り立っているものである。タイ人がそう売り込み、それは好都合と喜んだ白人が「アジア」全体に貼ってきたレッテルである。

黄土色の僧衣のタイ坊主に出くわしたら、左手で頭を軽く張りたたいてやるのが良い。それが正しい礼儀である。

それでもし怒り出したら仏教僧失格の証拠である。スッタニパータ読んで出直して来いと言ってやれば良い。特権で肥大したタイ坊主が錯乱している様子をビデオに撮ってYouTubeにアップしてやっても良い。

彼らはこの世からいなくなったほうが良い。悪質極まりない精神汚染源である。

マレーシアでもタイ坊主が徘徊するところは腐敗したところばかりである。

ペナンの夜、白人ツーリストに物乞いして歩く不法入国タイ人上座仏教僧は、マレーシアでは社会問題になっている。

クアラルンプールでも、タイ人僧の徘徊するところは、ジャランプタリン、ブキビンタン、チョウキット、など、退廃したエリアばかりである。

黄土色の僧衣を着たタイ坊主はウンコ蝿である。

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毎回キツネに憑依されたようになるイギリス人

前記事にも関係のある昔の思い出。

10年近く前のこと、日本である瞑想のようなセッションに少し通っていたとき、イギリス出身の白人男が一人参加していた。

(そこはいかがわしいところ〔=先生がインチキくさいという意味〕だったが、私がいろんなところを覗いていたころのことである。先生はアジア系外国人で教室が歌舞伎町というところなので、下手なことを書くと怖いかもしれないので、この先生に関する具体的なことは書かないことにする)。

そのイギリス男は日本語も少し話したが(発音だけは良かった)、「英語と女」で日本に無限滞在し食べているような、よくいるタイプの白人で、日本人をシニカルに見下す視線が普段からにじみ出ているような男だった。

白人が「他人を見下す視線」を常に身につけているということは珍しいことではない。彼らの世界自体が、そういうことのやりとりで成り立っているのだろう。

それでもその男は東洋の伝統に関心があったのか、単に神秘的な体験を求めていたのか、若い女もいないその教室には安くない金を払って熱心に通ってきていた。

瞑想(のような)セッションが始まると、その男は必ず豹変した。

その変わりようというのが、スイッチを押したら自動的にこう変わるというくらい機械的で、毎回同じで、しかも大変奇天烈なものだった。

この男が「キツネ憑き」という言葉を知っていたかどうかわからないが、毎回セッションが始まるとこの男は、文字通りキツネに憑かれたような普段は決して出さない奇声を上げる。

動物のような奇声だが、白人がセックスのときに上げるような「獣のような」声ではない(そういうのはタイのゲストハウスでも聞くことができる)。

この男が毎回出していたのは、高くて、笑うようで、何か意味のあるような、キキキケケケというような本当にキチガイじみた、やはり何か動物に憑かれているとしか思われない大変気持ちの悪い声だった。

声だけでなく、表情もしぐさもそれに応じてまさにキツネに憑かれたようになっていた。顔を奇妙にゆがめてキキキキキケケケケケと痙攣したように奇声を発し続けるのだが、苦痛でもなさそうで、むしろ気持ちよさそうでもある。

セッションの間毎回こんな具合で、完全に正気を失っているようにみえるが、セッションが終わると何もかもなかったように普通に戻る。

記憶がないわけではないようで、自分が変になってることは理解しているのだが、毎回同じように狂うのだ。

演じていることでないことは明らかである。迷惑だが、この男はリラックスするとこうならざるを得ないのだ、と見ていて納得する。

私は日本人で(瞑想等のときに)ここまでおかしくなる人を見たことはない。

「精神世界」等に興味を持つ人やオカルト好きな人の中には、こういうときに変になるのが偉いことのように思い込んでいる人もいるようだが、まったく見当はずれだと思う。深い瞑想に入れた証拠でもない。どんなセッションにおいても常に覚醒して正気を保っていられることが偉いのである。またそのような種類の「正気」にこそ価値がある。

このシニカルに人を見下す習慣のあるイギリス人が、常日頃から背負っているストレスがどれだけ大きなものかを示しているのではないだろうか。

白人社会が被っている仮面、彼らが日常負っているストレスがいかに大きく手ごわいものか、を表す事例といえるかもしれない。

もっとも、先祖がキツネ狩りでキツネを殺しすぎたために、呪われて、本当にキツネに憑かれているだけなのかもしれないが。

そうだとすると、イギリス人が瞑想するとキツネが顔を出すことになるのかもしれない。

イギリスの都会のキツネ (ワイルドライフ・ブックス)

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白人は座れない

白人は本当に座れない。これは驚くべきことである。椅子には座れる。床に座れない。長時間座れないというのではなく、ほんの2,3分も床には座れない白人が少なくない。

白人用の旅行ガイドブックなどを見ると、そこには「スクワットトイレしかない」ということがアジアの未開と野蛮と後進性の象徴のように書かれている。

しかし、白人にとってはこれが結構深刻な実際問題になるのかもしれない。

白人の多くは「スクワット」の姿勢、すなわち、ウンコすわりの姿勢さえとることができないだろうから。その場合は、中途半端な姿勢でぐらぐらと尻を揺らせながら用を足すことになるのかもしれない。

数年前、ネパールで「ヴィパッサナ協会」のリトリートに参加した。(これはスリランカ系の「テーラワーダ協会」とはまったく別の民間団体である。技法はビルマ系)。

そのとき一人だけ白人男が参加していた。

冬のブダニルカンタ(カトマンドゥの北の山の中にある村)のかなり寒いところにある道場に10日ほど篭った。経験者は2週間で初心者は10日ということになっていた(と記憶している)。

食事は午前中だけが原則(ただし、日本人から見ると量の多いダルバート:ご飯と豆のスープとタルカリ)。夕方は初心者にはフルーツとお茶が出るが、経験者はお茶のみ。

講話や技法の説明のほかは、基本的に一日中瞑想をする。

私語は一切禁止。リトリートの間完全に沈黙を守ることも行である。(ただしネパール人参加者にこういう禁止を押し付けても無駄)。

コースを終了するまで逃げられない。パスポートを最初に事務所に預けなければならない。

なお、参加費用はドーネーション(喜捨)だけ。いくら払うかは払う人が決める。

で、この白人もずいぶん勢い込んで参加していた。

白人の例に漏れず、アジアで「特別に扱われること」に慣れていたらしく、ここでもやたら派手なアクションが目立ち、不満と苛立ちの表現を周囲に撒き散らしていた。

そこでのヴィパッサナの瞑想は基本的に座って行われる。ところが、この白人、本当に座ることができなかった。

座布団を何枚も折り曲げて重ねて椅子のようにしなければ一分も座れないらしかった。それにずいぶん苦心していた。

当時座ることにはなれていた私も、このリトリートは決して楽ではなかった。蓮華座で三時間ぐらい座っていることは普通にできたから、座法自由で一日座っているのも簡単だろうと思っていたが、そうでもなかった。まず寒い。講話も聴かなければならない。ヴィパッサナ特有の神経をすり減らす行を参加した以上はやはりしなければならない。口を利かなくていいとはいえ集団生活のストレスというものがある。

私も4日目くらいに気持ち悪くなり嘔吐してのびてしまったが、翌日には回復した。

しかし、この白人はまた別の次元で参っていたようだった。

見たところ、瞑想にはまったくなっていないようだった。(ヴィパッサナは「瞑想」ではないという話はここではおいておく)。

この白人も英語で説明される技法を聞きそのとおりにやろうとはしていたのだろう。しかし、一つ一つが言語的だった。

立ち居振る舞いの一つ一つが、彼がリトリートに向かう貸し切りバスに乗ったとき何か気に入らなくて喚いていたあの傲慢な態度とまったく変わっていない。

日常の何気ない身体表現の一つ一つがはっきりと「言語的」である。つまり何気なくないのである。(これはスリランカ系「テーラワーダ協会」のヴィパッサナがいう「言語によるラベリング」とは別次元の話である。ビルマ系「ヴィパッサナ協会」の技法では言語は使わない)。

座れといわれて座った(ただしまともに座れない)。呼吸を見よといわれて見ている。

俺は「見るということをしているといえる」という形で見ている。しかし何も見ていない。

荒々しい呼吸が周囲に響き渡るようである。彼の粗雑極まりない日常の振る舞いをそのまま道場に持ち込む形で、呼吸と共にまた呼吸と別に、表現される。あくまで周囲に「表現」していないではいられないらしい。

座れないというだけでなく、彼はこのセッションから何も得られていないということを傍にいてもひしひしと感じる。

彼は決して一人になれない。どこまでも言葉の世界で、「誰かに対して」、その行を表現しようとしている。

言葉を発することを禁じられていることが、この男にとってはいちばんのストレスだったかもしれない。

彼は私と同じグループで隣のベッドで寝ていた。もちろん私語はしない。ネパール人と違いそういうルールは守るのだ。

6日目になって、リトリートに向かうバスに乗ったとき以来ずっと変わらず荒々しく攻撃的だった彼の目つきが急に穏やかになった。私は何か心境の変化でもあったのかと思って見ていた。

しかし、その日のうちに彼はいなくなった。

「コースが終わるまでは逃げられない」というシステムなのだが、彼は事務所からパスポートをもぎ取って一人で逃げて行ったらしい。

ヴィパッサナのリトリートは一日24時間の行である。

彼の場合、まともに座れないということは、まともに立てないということでもあり、まともに臥することもできないということだと思う。どんな姿勢をとっていても彼は結局、自己において安定を得られなかったようである。
 

ネパールには色々な瞑想やらヒーリングやらの業者がいるが、ほとんどはインチキである。ネパールブランドだけでも馬鹿な白人がいっぱいよってきて金になる。そういう業者の多くが「白人料金」を特別に設定している。もちろん儲けるためだが、たんなるツーリストプライスではない。日本人からは特別料金は取らないようだ。彼らには理屈がちゃんと用意されていて、「西洋人はアジア人より指導やヒーリングが難しいから」という理由である。彼らの動機はともかく、この理由自体は間違っていないようである。
 

カトマンドゥでは、タメルでも、チベット仏教の僧服を着て得意になっている白人男女を見かけることが多い。ヨガ行者気取りもいるだろう。

しかし、彼らはみんなインチキであり、彼らをおだて上げているネパール人やチベット人もインチキである。

彼らにとって重要なのは言葉と形だけであり、彼らが修行しているとしても言葉を言葉として修しているにすぎない。

われわれは好むと好まざるとにかかわらず、自分が背負っている文明の制約を受ける。

白人が背負っている文明はそれは立派なもので、巨大で堅牢な構築物のように彼らにのしかかり、すべてを決めていくのだろう。

そういう制約から自由になって、ありのままの現実を(日本語として手垢がついているが)ありのままに見て確かに知る(これがヴィパッサナの行の平凡な説明であろう)ためには、それぞれ、まず自分が背負っている文明のタガをはずせなければならない。

ところが白人が背負っている文明はあまりにも立派過ぎ、堅牢過ぎるので、そのタガをはずしてその支配から逃れれることは非常に難しいのだと思う。


雑貨

「ホワイトアウト」(気象現象)

「何より怖いのは、冬のホワイトアウトです。視界全体が真っ白になって、平衡感覚がまったくなくなるんですよ。自分が一体、どういう角度で地面に立っているのか分からないんです。こめかみが痛くなって、立っていることもできなくなります」

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090119-00000033-zdn_mkt-bus_all

これは興味深い現象だと思う。

真っ暗闇のなかにいても、目をつぶっていても、ここまで変なことにはならない。しかし、なまじ光があるだけで人間はこういう錯乱を起こすことがあるということ。

上と下、天がどっちで大地がどっちかということがわからなくなるだけで「こめかみが痛くなって、立っていることもできなくなる」。

大地に引力で引っ張られて立っているのだから、重力が作用している方向が大地でその逆が天だと思えば良いようなものだが、そう簡単なものではないのだろう。

段ボール箱に「天地無用」とか書いてあって、何のことかと思ったことがあるが、昔の人は「天と地」という意識が今のわれわれより強かったのかも知れない。


チラシ作成

児童労働は本当に悪なのか

ネパールの茶屋も、子供を使っているところが少なくない。

いつもお茶を飲むインド人経営の小さな茶屋には、チャイボーイが3人いる。一番小さい子が7つくらいで一番大きい子が13歳くらい。

主人と同じくインドのビハール州出身らしい。お茶(ミルクティー、ブラックティー)も入れるが、もっと大事な仕事はお茶の出前。店にはテーブルひとつしかないので、主として出前で成り立っている。ミルクティーが今一杯7ネパールルピー。10円弱である。

児童労働はとにかく悪だということになっているようなので、そうだとするとこれも白昼堂々と行われている「悪」なのだろう。

子供たちはかわいくて生き生きと立ち働いているしているが、確かに学校には行っていない。

しかし彼らは馬鹿ではない。インドにはチャイボーイになりたい子供も一杯いるのだろう。何しろ飯は食いたいだけ食えるようだし、寝るところもある。服もまともな物を着ている。縁故もあろうがそれでも多くの候補者の中から選ばれてきた、使える子たちだといえる。

複雑な小路、建物の中、どこにどれを持っていく、釣りはいくら、次のオーダーを伝える・・・・当然カネ勘定はできなければならないしつり銭の計算もできるだろう。母語はヒンディー語のようだが、ネパール語もわかる。

彼らが働いているのを見ると、私が子供の時には決してできなかった知能労働だという印象を受ける。私は特に方向音痴でトロイ方ではあったが。

彼らも学校に行けるなら行ったほうがいいとは思う。しかし、チャイボーイをやらないことがいいことだとは思えないのである。

学校にも何時間か行き勉強も少しはしながら、チャイボーイの仕事も何時間かやるというのが理想的にみえるかもしれない。

しかしそういう中途半端なことではどんな仕事もものにならないのであって、彼らはああして一日中同じ仕事をやっていられるから、余計なことに惑わされず、安心して明るく毎日を過ごすことができている、ともいえるように思われる。

人間の総合的な発達、人格形成、ということを考えると、彼らの生活よりも、学校に行って家でも勉強をして、それ以外の時間はネットやゲームばかりやっている生活の方が子供にとって良いとは必ずしも言えないように思われる。(私もそれに近い子供時代を送ってしまったが)。

確かに家庭に住み込んで働いている女の子の場合(ネパールでもタイなどでもこれが多いが)は問題が多い。

2DKくらいのフラットに住む家庭(金持ちといえる)に、12歳くらいの女の子が住み込みで働いていることがある。台所に寝床を作って寝起きしている。15歳くらいの子のこともある。

そういう家庭に若い息子がいたりすることが多い。女の子は農山村から単身で出てきていて保護者もいない。他人の目も届かない。やるなといったってやるだろう。主人の家がアーリア系カーストでその女の子がモンゴロイド系少数民族だったりすると、たいへん気の毒になる。また、かわいかったりもするのだ。

だから、児童労働といっても明朗健全なものとそうでないものとを区別したほうがいいと思う。「児童労働」というレッテルで一括してしまうのでなく、労働環境や性別によってもっと具体的に論じたほうがいいと思う。


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